自由と束縛、というと何かそのままフランス映画のタイトルのようだが。(ハリウッドとは違う)
束縛が強ければ強いほど「解放への渇望」も強くなる。
逆にはどうか。
束縛が弱ければ弱いほど。
「自由への渇望」はなりを潜める。
もう自分は自由だから。
逆に孤独感、とか不安感を感じるだろう。
例えば、服役している囚人。
一見「自由などない」という状態に見える。
実際、24時間監視下に置かれているのだ。
だが、自らが監視されている間は、特に自らの行動に悩むことはない。
「悩む選択」は与えられていないのだから。
彼は晴れてシャバに出て、「さてこれからどうするか」を考える立場になる。
自由になったのだ。
自分にも経験があるが、学生さん。
何か「見えない圧力に縛られている」ような抑圧感を感じる。
なぜか。
「社会的に自立していないから」である。
つまり親の扶養のもとにある。
親に庇護されている「お子様」の立場であるから、自由もあまりないのは当然である。
しかし若い時は「それ」を息苦しく感じる。
自分はまだ守られている立場なのに「自由がない」と感じるのである。
傍から見れば、「早く自立しなさい」という一言に尽きる。
自立すれば、無限の自由が与えられるのだから。
そして社会へ出る。
いよいよ自立。
自分のことは自分で決めてよい「自由」を手に入れることになる。
ところが。
ところがである。
「親からの自立」を勝ち取っても、今度は仕事先に縛られることになる。
では、仕事先から独立したらどうか。
今度は「自分が自分の責任で食べてゆかねばならない」という束縛にはまる。
この状態は「かなり自由」ではあるが自己責任は重い。
用意された会社で、用意された仕事をこなす、という"気軽さ"とは全く違うプレッシャーを負うことになる。
飲食店を経営する友人から聞いた話。
「飲食店で働いている人は、みな労働がキツいと感じていて、独立したいと思っている。けれど独立したらもっとキツいんだ。」
つまり、「自由と束縛」は表裏一体。
同じことなのである。
縛られている、と思っていても、実はとても手厚く守られている制度下にいる。
自由だ、と思ったら、その代りに限りなく自己責任での暮らしを強いられる。
どちらを選ぶのかは、本人の考え次第だが、いずれにしても「見かけ」ほど楽な選択はない。
社会人にかかるプレッシャーとはそのようなものなのだと、学生さんにはお話しておきたい。