藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

新しい生き方。

先日自分の人生という記事にはずい分反響をもらったのだが、その後さらに考える。

記事は、「自分の人生の配役」とか「人生の演出」をもっと考えよう、というようなものだったのだけれど、そもそもそうした感覚は、普段の自分には何故ないのだろうか? という素朴な疑問である。

「船長と船員」という関係にあれば、どんなに船が小さくとも「船長!船の進路が見えません」とか「北北東のはずが東にズレています!」とかいう客観的な関係になる。

そう。
自分の人生は「船長と船員が同じ」なのである。

だから船長の方針に異論を唱えることもないし、逆に「いちいち進路を確かめる優秀な航海士」もいないのである。

これはマズい。
何事も"客観性"をなくしては歪むものである。

"個人"というのはしばしばただ「風にさすらう」ように毎日を過ごして、あまり先の方針についてなど思いをめぐらさないものである。
それは、それこそ「最高の自由」であり「最高の選択」であるのだが、しばしば客観性を失う。

自分の中に別の人格が(普通は)ないから、わざわざ自分の中の船長さんに、いちいちお伺いを立てて、「船長、今年の方針は?」とか「今後三年の方向は?」とか「どのような人生の終着駅に着くのですか?」とかそんなことを訊く機会はない。
でも、違うタイミングでは、人は自らに問う。
"一体自分はどこにいて、この先どこに向かうのだろうか? と。"
いわゆる自分探し。
そして「そういうこと」を考えることが実は人生でも最も重要である、ということに私は長く気付かなかった。(嘆)

昨今、年金問題などでよく取り沙汰される将来設計とか、老後の計画、というのはともかく。

二十歳ごろから仕事をして、それからまず四十年間で何をするのか。
そしてその後の約四十年を何に費やすのか。

そんな大きな海図について、二十歳の若者も考えねばならない時代になっていると思う。
逆に言えば、もう「大方の人たちと同様な過ごし方」という考えでは「将来が選択しにくくなってきた時代」なのだろう。

高齢化して、ただ生活費の心配をするだけではなく、独身の人、夫婦者、親族との生活、など自分なりの海図を描くことを考える時代に入っているのだと思う。
まあワンピースではないが「大航海時代」なのではないだろうか。