興味力、という言葉はないけれど"好奇心"と言いかえれば、いろんな成功へのキーワードである。
先日、就活中の若者と話していてそのことに気が付いた。
特に業界を絞らずに活動していると彼は言うのだが、まず志望企業についての「興味」がまったくないのである。
興味のない相手と付き合おうとしても、どだい褌に力が入らない訳で、結果も返ってこないのである。
それにしても、もしかしたら自分が「少なからぬ今後の人生に関与する仕事先」について、それが
何を主力とする会社か、
これからの方向性はどんなか、
どういうルーツがあるか、
業界の特徴、強みや弱みはなにか、
さらには
その業界でもどういう職種があり、自分の適性や興味はどうか・・・
というようなことを知りもしないで応募する、というのも呆れるを通り越して不思議である。
さらに聞いているうちに、彼は実は仕事、というか「働く」ということにも全く興味がないことにも気が付いた。
自宅通いであり、「仮に来年ダメでも何とかなるし」という。
働く動機がないのであった。
日本の中流の豊かさは、こうした抜け殻のような若者を大量に作り出しているのだと思うと、どうも複雑な気分がした。
格差が少なく、平均的に豊かになると、人よりも「抜きんでる」とか「成り上がる」という直情的なハングリー性はなくなるのである。
しかし、もっと貧富の格差があるとよいのか、というとそうとも思えない。
平均的に豊かなのは良いことだろう。
原点回帰。
畢竟、何が言いたいのか。
ネット全盛の今、ビジネスのチャンスはこれまでのアナログ「+デジタル」になり、範囲もスピードも飛躍的に広がった。
「これをネットに載せれば受ける」とか
「このコンテンツをタダで広めればいい」とか
そうした方法論が自己目的化し、「そもそも何で手掛けているのか」ということは問われにくい時代になった。
むしろ"そういう話"は面倒くさい、と言われてしまうのだろう。
本来、働くというのはもっと「泥臭いこと」が動機で、その動機と結果はもっと見えやすい形であったと思う。
今の"デジタル・コンテンツ社会"がいかにスマートに見えても、この「動機と結果」の関係は変わらない。
「食べたい人がいるから作る」とか「読みたい人がいるから書く」とか、根本の原理を考えずして「生業(なりわい)」はない。
抹香くさいと言われようとも、「動機なき就職」ではなく「真正面からの仕事」をぜひとも探してもらいたいのである。
それが働く喜びにつながる唯一の方法ではないだろうか。