つくづく糸井さんのエッセイを読んでいると共感することが多い。
この人の感性は自分に似ている、などと言ったら失礼だけど、ひらめき方とか、目の付けどころ(最近「目線」というのは流行り言葉ですが)がいつも面白いのである。
この記事は「過去の自分の苦労話、は"そうなること"が分かっていたらとてもやり出せなかった」というはなし。
こういう話を聞くと嬉しくて、かえって少しくらいニブくて、頭が悪いくらいのほうが「何か」を生んでいくのかもしれないなぁ、と思うのである。
確かに「賢く、聡明で、論理的、知識と経験も豊富な人」が必ず成功しているか、というと全然そうでもない。
糸井さんの言うように、賢い人ほど色々考えて、また色んなところに頭が回って気がついて、金縛りにあったように動かないような気がする。
(だからといって考えないのもダメだろうけど)
「冒険」というくらいの「賭けの要素」がないと、
やっぱり、なにもはじめられないんですよね。
まったくそう思う。
さらに
「穴がある」「無理がある」「可能性が低い」
「根拠がうすい」「前例がない」そういう要素が、
ひとつもなくなるまで検討していたら、
なーーーーんにも、はーーじまりゃしませんよねーー。
難しい・・・
「もともと成功疑いないことだけやるのなら失敗はない」わけだし、
そんな道筋は「誰もが目指す」ものである。
「ただ道なき道を行く」ということでもなく、しかし「最初からリスクばかり考えて怯む、なんてとんでもない。」
そんなバランスの中で「現実世界の挑戦」は起きてゆくものなのだろう。
これからも"挑戦"ということについて、よく考え、老けこまないようにして立ち向かっていきたいとつくづく思うのであった。
12月13日の「今日のダーリン」
・じぶんたちがやってきたこと、
他の人たちがやってきたこと、
そのなかでもよくやったなぁと思えることを、
過去にさかのぼって考えてみると、
「知ってたらはじめられなかった」ことばかりです。頭のいい人がよくよく考えて、
できたらしっかりと調査もしたりして、
「さぁ、はじめよう」というようなことは、
なかなかできるものじゃありません。
「知ってないこと」があるからこそ、踏み切れます。もちろん、リスクも考えるに決まってます。
思ってもいないようなコストがかかる可能性だとか、
口約束が破られてしまう場合のことだとかもね。
考えることは考えるのですが、やっぱり考えが足りない。
どこかに「シロウト」なところがあるからこそ、
最初の一歩を踏み出せるのだと思います。「無謀」と言っては言い過ぎだけど、
「冒険」というくらいの「賭けの要素」がないと、
やっぱり、なにもはじめられないんですよね。たとえば、もともと正直に言ってることですが、
「ほぼ日刊イトイ新聞」がどうやって稼ぐのか、
そんなことを考えていたら、
「ほぼ日」ははじめられるはずがありませんでした。
ものすごく経理の感覚がなかったことが、
「いま、スタートしよう」と判断させてくれたのです。
いまの人は、(いまのじぶんも含めてですが)
あらゆる可能性を考えたり、知っておこうとします。
それを、いつやめるのでしょうか?
だって、いつかはじめなきゃはじまらないのに、
いつまで考えていたら納得できるのでしょうか?
最近、そんなことを思うのです。
「穴がある」「無理がある」「可能性が低い」
「根拠がうすい」「前例がない」そういう要素が、
ひとつもなくなるまで検討していたら、
なーーーーんにも、はーーじまりゃしませんよねーー。今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
これからは、「冒険老人化計画」というのをやっていこう。