藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

ストレス上等

*[次の世代に]いずれはそうなるから。

ほぼ日より。
と、こうして考えていくと、逃げたら負けだなと思う。
「ストレス歓迎」の姿勢でいることが、
人生をたのしくやってく方法のような気がしてくる。
悲しいだとか厳しいだとかも「歓迎」してしまう。
ストレスから逃げようとすると、重くのしかかるからね。
両手を差し出してにこやかに迎えに行く。
とっても共感。
で、自分の若いころの話。
とてもそういう気分ではいられなかった、と思う。
その「ストレス」以外のことには到底意識が及ばなかったと。
目の前の小さな荒波が、泳力(経験値)のない自分に押し寄せ、必死で浮かぶ。
ワープロを打てず、名刺交換もできない自分は社会の小波で溺れかかっていたと思う。
 
糸井さんの言う「「ストレス歓迎」の姿勢でいることが、
人生をたのしくやってく方法のような気がしてくる。」というのはかなり老成した感覚なのではないだろうか。
自分もほのかにそう感じる、ということは五十代に入ってからくらいでようやく「波の行方」とか「自分の進路」とか「これまでの軌跡」みたいなものの意味が分かってくるのではなかろうか。
 
だから。
四十代までの人、あんまり悲観しなくても心は鍛わっていますよ。と言いたい。
糸井さんが今そんな風にいうのだから、確かなことだと思います。
 
 

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

 

・つらいことや、悲しいことはストレスになるけれど、
うれしいことや、めずらしいことなんかもストレスだ。
とても簡単に言えば、息をするようにできること以外は、
なんでもストレスになるということだ。

ストレスがあると、それに対応しなくてはならない。
新しい対応をするとなると、それは疲れるに決まってる。
じゃ、ストレスはないほうがいいのかと言えば、
まったくそんなことはなくて、
温室でぼーっとしているようなことを、
人は望んでなんかいない、というのはご存知のとおりだ。
ストレスがほんとうにいやだったら、
いじわるに言えば、死人を見習うしかない。

疲れるからいやだの、めんどくさいだの、
もういろんなことしたくないだの、寝ていたいだの、
不平だか不満だかみたいなことは、
大人になると口ぐせのように言ってるものだけれど、
ほんとうにそういう状況になったら、
気持ちがおかしくなるほどバランスを崩すだろう。

人を愛しても、人に愛されてもストレスはかかる。
引っ越しをしても、転職をしてもストレスはかかる。
うまいものを食っても、まずいものを食っても、
スポーツをやっても、スポーツ観戦しても、
なにかしらでも環境に変化があれば、
すべてストレスがかかるものだと、ぼくは考えている。
「ストレス解消」とか言われるようなものごとは、
すべてが、「目先を変えたストレスのもと」である。

と、こうして考えていくと、逃げたら負けだなと思う。
「ストレス歓迎」の姿勢でいることが、
人生をたのしくやってく方法のような気がしてくる。
悲しいだとか厳しいだとかも「歓迎」してしまう。
薄味だったり、淡いストレスも慈しむように歓迎する。

ストレスから逃げようとすると、重くのしかかるからね。
両手を差し出してにこやかに迎えに行く。
あとは、あれだな、睡眠時間をケチらずにとること。
そして、なるべくちゃんと食うこともセットだろうね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
久しぶりに家でのんびりしてて、思いついたことでした。

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