藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

SNSで子供化。

糸井さんのブログより。
いわゆるSNS

(ツイッターについて)
だとしたら、「幼児の遊び」の大人版かい‥‥。
 これ、けっこう正解なんじゃないかなぁ。

自分もSNSに触れなくなって久しいけれど、何か感じていた違和感が判明した(と思う)。

これがクリエイターの旗手である糸井さんではなく、自分が発言したのでは「どうせもう年だろう」と一蹴されそうだが、言葉は発する人によって効果が全く違うのであった。(嘆)(ほぼ日のサイトは一日の閲覧が140万ヒットだそうだ)

「ねえねえ聞いて」をデジタルで発信することで、自分の日常の時間を埋めてしまう。

俳句ほど頭をひねることもなく、また大きな文章を発することもない、まさに呟きである。
糸井さんも指摘している、なぜか「習慣性もある、自己愛的な」行動なのである。
友人が「ツイッターしていると寂しくない」と言っていたが、孤独感を紛らし、そして何か「人の考える時間」も押し流すような、SNSとはそうした側面があるのではないだろうか。
自分は少し距離を置いてみたいと思うのである。

・これまで、ずっとやってきたことなので、
 まことに天に向けて唾をはくようなものなのだが、
 「わたしは、ナニナニを食べた」とか、
 「ぼくは、いまドコドコにいます」とか、
 「おれは、いま機嫌がわるいんだよね」だとか、
 「よく晴れているから、気持ちがいいです」だとか、
 ツイッターだとか、フェイスブックとかで、
 どうして言うんだろうねぇ。
 これまでの人間の歴史のなかで、
 おおぜいの人に向かって、「いま焼肉を食べに行く」とか 
 語りかけることって、あったんだろうか。
 日記みたいなものに書くことはあったろう。
 隣の人に、なにやら伝えることもあったろう。
 でも、知人友人が中心だとはいえ、
 それなりのサイズの「社会」に向って
 「なにやらなう」だとか「どこそこのなにやらうまーい」
 なんて、わざわざ言うんだよ、
 ときには写真なんかも見せちゃってね、
 時代劇にはありえない場面だよね。
 
 正直に言うと、ツイッターはじめたばかりのころ、
 なんじゃこれはという違和感はあったんだよ。
 でも、すぐに馴れちゃって、
 誰になにを言ってるんだか、意識もしなくなった。
 ま、それなりに、「多少でもおもしろがられたい」
 というような欲はあるらしくて、
 「もう寝ようかなぁ」みたいなツイートは多くはない。
 でも、「これ(つぶやきっていうのかな)、なんだ??」
 という気持ちは、なんとなくずっとあったんだ。
 
 で、今日、「ああ、そうか」とわかった気がした。
 幼いこどもが、おかあさんに向って、
 「あのね、ぼくね、サラダ食べたの」だとか、
 「ミッキーのおうち、いきたいねー」だとか、
 「見て見て、こんなに高いところにいるよ」なんて、
 わざわざ報告しているじゃない?
 あれと、そっくりなんじゃないかな、ってね。
 だとしたら、「幼児の遊び」の大人版かい‥‥。
 これ、けっこう正解なんじゃないかなぁ。
 けっこう自己愛的な遊びで、さらに習慣性もあるよね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
あのねあのね、今日の夜は『かないくん』のお話ちゅるの。