藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

たどり着くところ。

まるで。
小さいときに聞いた、お寺の和尚の講和である。

 「ていねいに、うそをつかないようにする」

学校で学び。
家族や友人と接し。
社会で働き、揉まれ。
いつしか自分たちは「嘘」が身についてしまう。
プラス、とかマイナス、はまだしも、「好き」とか「嫌い」をストレートに意表していてはカドが立つ。

だから自分たちは「言葉を使う」ということを覚える。
言葉は発音して「自在に変化」させられるということを知るのである。
つまり言葉を自分の思いの表現、ではなく「手先の道具として」使うこともできてゆく。
言葉を巧みに操るものは、望む効果を得ることもあるが、人を欺きペテンにかけてしまうこともある。

どれほど磨いた技術でも、凄まじいばかりの経験でも、
 ぜんぶ捨てられると思うけれど、

 それでも、「うそをつかない」という場所に
 たどりつくのは簡単じゃない。
 死んでからなら、それができそうな気もしますね。

ただ嘘をつかないようにするだけではない。
「ていねいに。」。
これも難しいけれど、どうやらこの辺りに「コミュニケーションのツボ」があるのではないだろうか。
簡単だが、なかなか実践するのは大変。
けれど、必ず効果が期待できるだろう。
ていねいに、行きたいものである。

これまでも感じたり思ったり考えたりしてきたし、
 きっと、この先もいろいろ語ることになるのでしょうが、
 そのときどきに、新しい発見があったりします。
 
 昨日は、谷川俊太郎さんと話していて、
 実際に使うことばと、こころに浮かんだことばの、
 ズレの少なさみたいなことに感心していました。
 谷川さんのことばを聞いていて、
 「あ、これはほんとうに思ってることだな」と、
 とてもしっくりくるんです。
 
 ことばっていうのは不思議なもので、
 なんにも思うことがなくても、発することができます。
 そして、思っているのとちがうことばも口から出せます。
 でも、ほんとうに気持ちがいいのは、
 思っていることと、発することばが、
 ぴたっと合ってるときです。
 これは、ぴたっとくることばを探してこられることや、
 それをうまく組み合わせたり、適確な間を置いたりという
 表現の技術も必要です。
 そして、なによりじぶんの思っていることを、
 まるごとつかまえて逃がさないことが大事です。
 そんなややこしい言い方をしなければ、つまり、
 「ていねいに、うそをつかないようにする」
 ということなんだと思います。
 
 谷川さんからは、いつも、
 それができてる感じが伝わってくるのです。
 そして、ぼくはその近くにいるときに、
 あらためて確かめるように思います。
 「じょうずであることよりも、
 うそをつかないことのほうが、
 ずうっとすばらしいことなんだ」と。

 どれほど磨いた技術でも、凄まじいばかりの経験でも、
 ぜんぶ捨てられると思うけれど、
 それでも、「うそをつかない」という場所に
 たどりつくのは簡単じゃない。
 死んでからなら、それができそうな気もしますね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
おかげさまで『かないくん』、前代未聞の好スタートです。