藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

言葉とは何だろう

糸井さんのブログより。

でも、それから、あることがわかるようになった。
 古い伝説のなかで、どうぶつや木々がしゃべることや、
 子どもが、よく、ぬいぐるみとしゃべっていることは、
 なんにも不思議もない、あたりまえのことなのだ。
 風も木も、石も、どうぶつたちも、みんなしゃべる。
 だんだんしゃべらないようになってしまっただけだ。

つまり。
おとぎ話の世界は全部「リアリティ」があったということにもなる。

だいたい、人間以外のものは
 ことばをしゃべらないことになっている。
 異論はあるかもしれないが、基本的に、
 ぼくもそう思って生きてきた。
 
 しかし、ただ一度だけだけれど、
 ソックスがしゃべるのを耳にしたことがある。

結局は人間、自分たちの"文脈"ということが全ての基準というか元になるのだろうか。

おそらく、ぼくの「生きていること」の文脈のなかに、
 「ああ、よかった」という声が必要だったのだろう。
 その声がピタッとはまってくれるので、
 聞こえたという記憶ができてしまったのだとは思う。

「自分の文脈」というものをなかなか意識する機会はないけれど、確かに存在する。
だって自分自身のことだもの。
自分の生きている、ということの文脈。
そこには色んな声とか、思いとか、意志とかが必要なはずである。
そこに必要なもの、はもう「あったもの」として記憶されてもおかしくはない。
自分たちの脳とか記憶とか、思考とかはそんなものだと思う。
だからこそ自分がどのような思考やふるまいをするのか、ということを自分がしっかり意識する必要があるのである。
起きたこと、記憶にあることが全てではないかもしれない、ということを自分たちは思考の中に入れておかねばならないのである。

・だいたい、人間以外のものは
 ことばをしゃべらないことになっている。
 異論はあるかもしれないが、基本的に、
 ぼくもそう思って生きてきた。
 
 しかし、ただ一度だけだけれど、
 ソックスがしゃべるのを耳にしたことがある。
 洗濯のあとで、どこかになくなってしまったはずの、
 片方の靴下が、半年ぶりくらいで見つかって、
 もう片方に重ね合わされたとき、
 「ああ、よかった」という声が、
 どこからともなく聞こえてきたのだった。
 あの「ああ、よかった」を聞いてしまったせいで、
 ぼくが、いかにふだん、さまざまなものの声を
 聞き逃していたかがよくわかった。
 いま発見されたほうの靴下がしゃべったのか、
 ずっとパートナーを待っていた靴下がしゃべったのか。
 どちらもが、声をそろえたのか。
 
 この話は、たぶん何度か書いたこともあるし、
 知りあいに話したこともある。
 冗談を言ってるつもりもないが、
 うそを言ってるわけではない。
 それは幻聴だ、病気じゃないのかと言われたら、
 そういうことだったのかもしれない。
 おそらく、ぼくの「生きていること」の文脈のなかに、
 「ああ、よかった」という声が必要だったのだろう。
 その声がピタッとはまってくれるので、
 聞こえたという記憶ができてしまったのだとは思う。
 たぶん、実際にあったことのなかで、
 すっかり忘れてしまうことがあることや、
 自信を持って記憶ちがいをしていることなんかも、
 同じような現象なのだろうとは思う。
  
 でも、それから、あることがわかるようになった。
 古い伝説のなかで、どうぶつや木々がしゃべることや、
 子どもが、よく、ぬいぐるみとしゃべっていることは、
 なんにも不思議もない、あたりまえのことなのだ。
 風も木も、石も、どうぶつたちも、みんなしゃべる。
 だんだんしゃべらないようになってしまっただけだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
あらゆるものは、ひっきりなしにしゃべってるとも言える。