藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

信頼関係について。

糸井さんのブログより。

 企業の場合でも、人間の場合でも、
 長年かかって築いてきた「信頼」が、
 あっというまに崩れてしまうこともある。

確かにそうだ。
と同時に信頼って何を根拠に築いてきたのだろうかということも気になる。
それは、確かに言葉ではなく「何をお互いにしてきたか」という実体なのに違いない。
そうした時に言葉の働きというのは限定的なものなのだと気づく。

人と人の関係は、主に言葉で交わされるしとても重要な方法に違いないけれど、「それ」だけでは計れないコミュニケーションがあるのだろう。
「昭和仁侠伝」とか戦争映画とかにあるような人と人の繋がりは、言葉だけでは繋ぎきれない人間関係を描いているのだという気がする。

 こんなところでひょいと出したら悪いけど、
 うちの犬のことなんか、けっこうぼくは「信頼」してる。

人はひょっとしたら言葉を使うがゆえに「信頼」を偽善化しているのかもしれない。
「私はあなたを信頼しています」という言葉そのものが嘘くさい存在なのかもしれないのだ。
人はここ数千年、ずっと「お金とかの経済価値ではない関係」を模索しているのかもしれない。

一方でお金の多寡でそれを計りながらも、実は「人間関係だけ」で互いを計るような試みだ。
ビジネスも家族も異性関係も、何でも「経済的価値」に置きなおす風習があるけれど、実はそれ以外の計測方法が人には重要なのかもしれない。
それが明らかになれば、今の世の中にも新しい価値観になるのに違いないと思う。

・「信頼」ということばは、とてもよく使われる。
いろんなことを考えていくと、
どこかで「信頼」ということばに出会うことになる。

とても大きな力を持っているのだけれど、
「信頼」できない人というのもいる。
語ることばは、いかにも利口で善良なのだけれど、
「信頼」できないなぁと思える人もいる。

できることは少ないのだけれど、
「信頼」できる人だっている。
こんなところでひょいと出したら悪いけど、
うちの犬のことなんか、けっこうぼくは「信頼」してる。

企業の場合でも、人間の場合でも、
長年かかって築いてきた「信頼」が、
あっというまに崩れてしまうこともある。
 
たくさんの人と会ったり、仕事をしてきたりして、
お金が貯まること以上に大切なのは、
「信頼」が築かれていくことなんだと、つくづく思う。
 
「信頼」がおもしろいのは、というかむつかしいのは、
口先でつくれないものだということだ。
どれだけ立派なことを言ったか、
どれほど正しいことを語ってくれたかだけで、
人びとの関心や、感心を集めることはできても、
それだけでは「信頼」はしてもらえない。
「信頼」されるということは、
やっぱり、なにを言ったかではなく、
なにをしたかによるものだと思う。
 
「言う」ことで得られる「信頼」もあるかもしれないが、
それは、きっと、その「ことば」が、
地面の下の根っこに続いていると思われたときだ。

「信頼」なんかなくてもいいと考えたとしても、
おそらくそれなりにうまいこと生きていけるだろう。
でもそれは、「信頼」されなくて悲しんでいる人よりも、
ほんとは、ずっとつらいことをしているのだとも思う。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
仕事をするチームでは「信頼」と「貢献」が両輪なのかも。