藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

決定力。

糸井さんのブログより。
山には山力。
海には海力。
犬力、猫力。

だいたいの「力」というのは、「性」なんだよね。
 「そのものであること」というのが
 「性」だと思うんだけど、
 「そのものである」だけで、それは「力」なんだよな。

そのものであるだけで、力。
つまり「そのものである」ということはかなりそれだけでカロリーが要る状態なのだ。
踊りのお師匠が、その佇まいを維持するには日々みっちりと稽古が必要になるだろう。
つまり「その状態を維持」してオーラを発していることだけで十分"力"なのである。

そして「決定力」「大人力」。
どちらも「さんざんの経験を経て」もたらされると。
つまり、「その状態」を維持しているだけで、それはある種のパワーであり。
またそのパワーは実務での経験とか、失敗とか、工夫とか、挫折とか「そういう泥臭いもの」で出来ているのである。

パワーは一日にして成らず。
この辺がシブいというか、「ただ若いだけ」とか「ただ賢いだけ」では得られない"いぶし銀的な"よさなのである。
女子力とかいうけれど、あれも女子をさんざんやってきた、から身に付くものなのかしらん。
その割に男子力、という言葉は聞きませんね。
男子はずっとやっていてもあまり「力」としては現れてこないのかもしれない。
はぁ。

・「老人力」とか、「鈍感力」とか、
 一般的な「力」に対しての反作用みたいな概念がある。
 ま、だいたいのことは「力」をつけられるものだ。
 犬には「犬力」、猫には「猫力」があるということは、
 犬やら猫に親しんでいる人なら、たいていは知っている。
 山には「山力」が、海には「海力」が、
 暇には「暇力」、馬鹿には「馬鹿力」、
 ゴミには「ゴミ力」、無にさえも「無力」があるような。

 だいたいの「力」というのは、「性」なんだよね。
 「そのものであること」というのが
 「性」だと思うんだけど、
 「そのものである」だけで、それは「力」なんだよな。

 どうして、この「力」のことを考えてるかと言えば、
 やっぱりいまがワールドカップの真っ最中だからかな。
 「決定力」ということばを意識せずにはいられないのよ。
 強いチーム、強い選手を見ていると、
 どうしても「決定力」ということを思っちゃう。
 「決定」したところを見たから、
 結果論として、そこに「決定力」があったのだとも
 考えようとするのだけれど、そうじゃないんだよなぁ。
 「決定力」は、決定する前の動きから、
 すでにむんむんと漂っているように思えるのだ。

 たぶん、それは「経験」というものと、
 強く関係していることなんだろうなと思う。
 「大人性」があること、「大人力」というようなものが、
 さんざん大人としての「経験」を経ないと
 表われてこないのと、似ているんじゃないかな。
 当事者として「決定」に関わった経験が、
 しだいに身についていって「決定力」になるわけだ。

 「本場でもまれてくる」なんていうことがあると、
 圧倒的に真剣な「経験」が蓄積される。
 この「経験」というものの絶対量が
 「決定力」になって表われるんだとしたら、
 これはねー、身につくまでに時間かかるよねーー。
 「ほぼ日」にとっての「決定力」って、
 なんだかわからないけど、身につけたいもんだなぁ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ほとんどの力って、対人で発揮されるものだとも思うんだ。