藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

左脳と右脳の間で。

十代の頃に避けて通ってしまった二声のインヴェンション。
最近やり直してみてつくづく不思議な感覚になる。
ちょっと頭の中が配線違いを起こしそうな気がする。
練習が終わるととても疲れるが、何か頭の中がすっきりするような感覚が残るのだ。
数独やったあと見たいな。
と師匠に聞いてみますと「そりゃそうですよ。バッハはパズルか数学みたいなものですからね。」
そうか。
音楽にも数学とか、古典とかあるのだ。
化学とか倫理とかもありそうだ。
生命科学とか社会学なんてのもあったりして、そんな分類を研究してみるのも面白そうである。
それはともかく。

人は果たして同時にいくつのことを考えられるのだろう。

今のコンピュータはネットを見たりと同時に音楽を鳴らすとか、ゲームをするとか、アプリをいくつも開くとかが出来るようになっているが、実は高速で分割して処理しているだけで「完全に同時に処理」はしていない。
人間も一見右手と左手は別々の動きをしているが、バッハを弾いているとそれが「片方が自動」になっていて「片方に意識が向いている」ということに気づく。
厳密には「同時」には頭の中には存在していないような気がするのだ。
これがプロになれば「完全に意識の中で同時の作業」になるのだろうか。
それとも両方とも無意識に歌うということだろうか。

そう言えば音楽とは何だろうか。
ポリフォニック(複数音)に和音や旋律を流し、それをまあ同時に聴く。(短音のメロディももちろんあるけど)
ベースの旋律がカッコよくてそれを追いかけて聴くこともある。
メインのメロディはやはり一番目立つし。

単音で聴く音楽と重音で聴く音楽は何が違うのだろう。
そりゃ複雑さが違うんだろう。

人の感性は、その和音をそのまま「完全に同時に」聴いて、感じているような気がする。

だとしたらプレイヤーもそんな風に「同時に意識して演奏する」という域になれるのかもしれない。
ひょっとしてプロとアマの違いはそこなんじゃないか。

バッハはそんなための練習のドリルなのではないだろうか。
とあれこれ考えていても何も上達するわけではないのだった。