藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

行動の基準。

糸井さんのブログより
見た目がきれいかどうか、と心がきれいかどうかの関係。
だれしも「いい人だねー」「優しいねー」と言われたことはあるだろう。
けれど、ある時は苦渋の決断をすることもあるし、相当滅私の精神を発揮することもある。
だから人は分からない…

多分ほとんどの人は、平静はいい人である。
もう、普段から極悪の歩く凶器、みたいな人もいるかもしれないが、その人にも大抵仲間はいたりする。
仲間には極悪ではいられないから、そのある集団ではやはり「ある程度いい人」なはずである。
理由なく友人や家族を裏切る人は少ないし、どこかの社会の中の一部で生きていくのなら、悪いことばかりはしていられない。

よく映画なんかで悪者集団が「よし、金を盗もう」という企てをしているのを見るとクスッとしてしまう。
悪者でもお金が欲しいのだ。
ということは、悪者も盗んだお金を「真っ当な社会」で使おうとしている訳で、悪者も「悪者社会だけ」では生きていけない、というある意味当然の行動心理がなくとなく可笑しい。
悪者なのに、例えば繁華街で高級店に買い物に行き、「そこではきちんとお金を払おうとしている」というのがどうも矛盾している思う。
あるところでは大泥棒、あるところではちゃんと勘定を払うお客って、ちょっと可愛いというか滑稽ではないだろうか。

話がそれてしまった。
(つづく)

ぼくが小さいころのマンガでは、
 ふとった人は、「お人好し」ということになっていた。
 マンガばかりじゃなく、映画やテレビ番組でも、
 ふとった人はおおらかで、ほがらかないい人だった。
 ぼくはやせていたので、ふとりたいなぁと思っていた。
 いまでは、そんなイメージは持っていないけれど、
 こころの奥のところで少々のつらい気持ちを持っていた。
 
 そういう感じで、いまさら思ったことがある。
 「人を見た目で判断してはいけない。
 人の価値はこころのきれいさで決まるのだから」
 という言い方を、あらゆる場面でされて人は育つ。
 この考えは、おそらくまちがってはいないのだが、
 ちょっと妙な落とし穴に誘導されてしまう。
 仮に、見た目で判断された美男美女が、同時に、
 きれいなこころの持ち主であるということはないのか。
 それは、おそらくあるだろうよ、いくらでも。
 「人を見た目で判断してはいけない」という条件は、
 見た目のよろしい人にとっては、おそらくハンデだ。
 さらに、見た目でよろしくないとされた場合には、
 「こころのきれいな人の組」に自動編入されるのか。
 なんとなく、へんなものだなぁと思ったのだった。
 
 さらに、実はもっとわからないのは、
 「口の悪い人は、ほんとはいい人」という法則。
 どう考えても怪しいだろう、それは。
 悪いことを言わないように自制できている人が、
 「ほんとは悪い人」と思われやすくしてはいないか。
 口が悪くなくて、しかもいい人のほうが多いよ、
 ぼくの知っているかぎりでは。

 そもそも、「こころがきれい」とか「いい人」って、
 どういうことなのだろうか、とも思う。
 自称「こころのきれい」な人に、
 かなりきれいじゃない仕打ちをされることだってある。
 「いい人」がけっこうひでぇことをする場合もある。
 そういう意味じゃ、口の悪い人っていうのは、
 いい場所に住み着くのが上手なのかもしれないけどね。
 いやぁ、結論があって書きだしたことではないのだけど、
 人間社会って、まるでサッカーのフィールドだねぇ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
牽制、反則、抗議、作戦、必死‥‥社会も競技場みたいだ。