藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

借り物の知識。


糸井さんのブログより。

昔はあんまり多くなかった「黒い箱」が、
 いつのまにやら、増えたこと増えたこと。
こんなむつかしい世の中に弱音を吐くようですが、
 金づちと釘みたいにわかりやすい時代がなつかしいです。

文明が高度化すると、何でもその仕組みを知っていることは難しい。
何もないところで火を熾す技術も大変だが、自分一人では鉄とかガラスを作るとか、ましてやコンピュータの回路など絶対に出来はしない。
自分たちはそうした「分業化のモジュール」を前提に毎日生活しているのだ。

朝起きて、寝ていたベッドや毛布にしても、歯磨き粉にしても、着ていく洋服や、そして住んでいるマンションにしても、何一つとして「自分一人で作り出せるものなどない日常」で自分たちは暮らすようになっている。
ものすごく有難いことだけれど、これって文明の宿命ということなのかもしれない。

さてそれはともかく。
そんな「日常の細分化」が今度は頭の中にまで侵入していたり。
誰かが言う国の財政とか、医学とか、お金とか、職業とか、もう「ある塊」で語られる常識とか通説みたいなものに、自分たちは殊更"疑問を呈すること"を止めつつあるように思う。

借り物の知識で、さらにその先のことをもっともらしく語ってみたり、これからの自分たちについてもあまり「そもそもは」ということも少なくなっているのじゃないだろうか。

消費者物価が、とか国債金利が、とか原油価格が、とか為替が、とか言うけれど、もうその「そもそも」が何だったのか、何のためにあるものかということの説明も曖昧だ。

日常の生活のその殆どが「誰かが作ってくれたもの」の上にあり、またこれからの自分たちについての議論も、「自分たちがオリジナルで考えたもの」はとても少ない。

「黒い箱の時代」はそれだけ便利だけれど、思考のショートカットも内に含んでいるし、その部分については思考は停止しているのに違いない。

お金とか土地とか、職業とか所得とか、家族とか友人とか、自分が日々を暮す要素についても改めて「自分なりの原点」を持っておかないといつのまにか自分が「自分で考えたものは何もない」ということになりはしないか、と時々思う。

「借り物でいいこと」と「自分オリジナルでの考えを持つこと」を分別できる日常でありたいなぁ、などと思うのでした。