「人はドリルが買いたいのではない。
ドリルで空ける穴が欲しいのだ」というものがある。
これを言った人にも、さすがだなぁと思うのだけれど、
先日、「穴を必要としてないのに、
ドリルを欲しがる人がいるのではないか」
という意見を読んだ。
この一文を読んで昔車に乗っていた時のことを思い出した。
免許を取って、ともかく自分の車が欲しいと思っていた。
でもプロのレーサーになりたいとか、タクシードライバーに成りたいわけではなかった。
「自分の車を運転している自分の姿」が目標だったのだと思う。
自分でそれをカッコいいと思い、そんな自分に夢想していたのだ。
車が目的ではなく、車に乗っている自分が目的だった。
「自己目的化」というのは、今の年になっても重要な注意事項だと思っているのだけれど、いろんな場合がある。
自分はお金が欲しいのか、それとも「お金を使っている自分」が欲しいのか。
名誉や権力が欲しい人は、それそのものが欲しいのか、それとも「それらを誇示している自分」が欲しいのか。
「他人に見られること」の呪縛から離れてみると、車もお金も権力も、実はさほど魅力がないことに気付く。
美人やハンサムだってそうだ。
他人の目があるからそもそもそういう話になるが、「自分だけ」に立ち返ってみるとそんなに重要なことでない気もする。
自分一人で(例えば自動販売機で)買い物をひたすらしていても楽しいだろうか。
買ったものを身に着けたり、他人に見てもらうことなしに、「自分だけで楽しいこと」「自分が本当に喜べること」を探すのは生涯を通じて大切なことなのではないだろうか。
思えばモノづくりをする職人とか、農業家とか言う人たちにはそういう内面的な喜びを基本にしている人が多いようだ。
「自分が本当に目指したいことについて」という視点を日常忘れないようにしないといけないな、と思うのでした。
・有名なマーケティングの格言に、
「人はドリルが買いたいのではない。
ドリルで空ける穴が欲しいのだ」というものがある。
これを言った人にも、さすがだなぁと思うのだけれど、
先日、「穴を必要としてないのに、
ドリルを欲しがる人がいるのではないか」
という意見を読んだ。
これ、前々からぼくも力説していたことだったのだが、
やっぱり同じこと思っている人がいて、うれしかった。
当然のように、ドリルそのものが欲しい人はいるのだ。
「ドリルはかっこいい、このドリルはすばらしい性能だ、
このドリルで穴も空け放題だ、まだ空けないけど」
というような気持ちでドリルを買う人は、
まだ空けない穴を買っているふりをして、
実はドリルそのものを買っているのである。
ビートルズが好きで憧れているうちに、
弾きもしないリッケンバッカーを買うことになるおやじ。
料理をしているうちに、コックさんの帽子を買う男。
ラーメン好きが高じて、屋台を買おうとしている男。
だいたいは男なのだけれど、
どれもドリルと穴との関係ではない買い物をしている。あえていえば、このへんの買い物をする理由は、
「化粧」とか「おしゃれ」に近いのではないだろうか。
「すごいドリルを身にまとった俺」
「あのギターを小脇に抱えたおいら」
「屋台まで所有しているほどラーメン好きなわたし」
これは、「要不要」「有益無益」に関係なく、
古来からある入墨や羽飾りなんかと同じような
「装飾」「化粧」「おしゃれ」なんだと考えることだ。
それをしたから、なにが得なのかはわからない。
したいからするし、しなきゃいられない思いもあろう。
人間にとってそういう「おしゃれ」は、
時として「穴」より欲しいものなのだ。
装飾したトラック、みごとな彫刻の刀剣や拳銃、
こういうものを手に入れるのに、財産まで投げ出すのは、
古来からずっと続いていることである。
マーケティング理論のほうが後からでてきたものだよね。今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
わけのわからない、しかも大事にしてること。おもしろい。