藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分の環境を作ること。

三歳から十年余りピアノを習って、その後バンド活動などに現を抜かす。
社会人になって十数年経ち、再び習い事へ。
きっかけは「いいピアノを触りたい」と思って都内の色んなスタジオを巡り、プロのジャズピアニストのレッスンがあることを知って入門した。
思えば「自分で習い事をしたい」と思ったのは人生で初めてだったと思う。

つくづく何事も"自発"でなければ成果が出ないなぁと思う。

社会人になり、オッサンになるにつれ「他人からストレートにモノを言ってもらう機会」は減ってゆく。
お互いに利害関係もあり、またストレスを感じながら「相手に直言すること」に大きなモチベーションは無くなってゆくからだと思う。

習い事のすごさはそうした「世間の柵(しがらみ)からの隔絶」だろう。
その師に就けば社会的な立場とか、年齢の高低とか遠慮とかは一切ない。
しかもその道においては「プロとアマと素人」という一直線上の関係で揺るぎもないのである。
そういう「絶対的な関係に入る」という意味が習い事の神髄ではないだろうか。

そしてまた教える側も「自分の道」をかけて教えてくれているのに違いない。
俳句でも輪読会でも、ピアノやサックスやバイオリンでも習字でも、「ある道」に師事するというのは特に社会人にとっては重要な試みではないだろうか。
「圧倒的に師事できる環境」というのは社会に出てしまうと曖昧で、むしろ自分で「自分にも違う個性がある」という偏向した評価すらしてしまう。
そういう逃げ道の全くない「ある道」を人生において幾つか確保しておくことは、結果的に自分自身の定位感を保つのに役に立つ。

何よりも「少しだけ」でも上達が実感できたとか、新しいことが分かるというのは最高の知的な刺激だと思う。
本を読んで知識を得るのも楽しいことだが、あえて「その道」を限定して"ひたすら学ぶ環境"を作るというのは実に自虐的だが楽しい。
この楽しさは「若さをいつまでも感じられる」というような快感と繋がっているのだと思う。

さて自分かこれからいくつの学びと対峙できるのだろうか。