藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

何気なく。

糸井さんの作家とか詩人 の顔ってもう最近ではほとんど見ることもなかったと思うのだけれど、今日のコラムは素敵だった。
『 静かにしていれば見つからなかったのに、
 風鈴は、ぼくに見つかってしまったな。
 まっ黒い雨傘を低めに構えて歩いていたぼくは、
 かくれんぼの鬼のようだった。』

詩というのは、そういえば自分のまわりの出来事を客観的に見たり例え話にしてみたり擬人化したりという、ずい分楽しい作業だったことに気付かされた。
詩人って夢想家のようでいてどこか醒めた感じがするのもよく分かる。
ずい分涼しい秋の夜に詩集を広げてみようと思った。

 
・いまの時期、
 散歩をしていると、どこからともなく
 キンモクセイの香りが漂ってくる。
 ツイッターフェイスブックのなかにも、
 キンモクセイという文字がよく見られるようになった。
 桜の季節に、あちこちから
 桜が咲いたという知らせがあったように、
 いまは、キンモクセイの香りをみんなが伝えあっている。
 
 昨夜は、雨の夜に歩いていたら、
 キンモクセイの香りと、
 休みなく傘にあたる雨音のなかに、
 仕舞い忘れたらしい風鈴の音色が混じってきた。
 それはそれで、とても場違いだし、
 時期外れなのだけれど、あってもいいよなと思った。
 
 ガラス細工の、風情のあるともいえない風鈴を、
 湿気をたっぷり含んだ夜の風が煽り立てている。
 静かにしていれば見つからなかったのに、
 風鈴は、ぼくに見つかってしまったな。
 まっ黒い雨傘を低めに構えて歩いていたぼくは、
 かくれんぼの鬼のようだった。

・12歳を過ぎたうちの犬は、確実に老犬になってきていて、
 いろんな個性に思えていたことが、
 実は若さがゆえの能力だったということを知らされる。
 散歩のときに前に出て行こうとして引っぱるくせは、
 もうとっくになくなっている。
 ソファに寝ているぼくの胸に飛びこんでくる迷惑も、
 それほどの跳躍力がなくなったので、もうない。
 ぼくがじぶんのベッドで寝るときにも、
 ひょいっという感じで乗っかってきたものなのだが、
 いまは、力をためて思いっきりのジャンプをしている。
 人が通るときだけ点灯するライトが、
 犬のジャンプの成功を待てずに消えてしまうと、
 その灯を点けるためだけに、ドアのところまで戻って、
 あらためてジャンプを試みる。
 そういう利口さは、年を取ったからこそだとも思う。
 それでも、年に似合わぬ赤ん坊のような表情が、
 ときどき見えたりするのが、また、おもしろいんだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
季節も変わるし、どうぶつの生き方も変わるものだよねー。 
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