藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

無駄な時間の過ごし方。

古くからの悪友に「お前のブログは糸井さんの引用ばかりじゃないか」と指摘される。
「だったらほぼ日刊イトイ新聞を紹介しろ」と。とほほ。
でもそれでは誰も読んでくれないし。(嘆)
けれど、イトイ新聞のコラムにちょっと一言いいたいのだ。
何か「分かる分かる」と共感する部分のちょっとはみ出た部分で、「あ、自分はこんなことを連想しました」とか言いたい気分にどうしてもなる。
糸井さんのコラムはそういう「惹き」が強いのだと思う。
多分、職業とか才能とかに関係しているのだろう。
それはともかく。

だらだら、について。
気付かずにあっという間に半日だらだらしてしまったとか。
仕事しなくちゃ、と思ってだらだらしてたとか。
体を休めよう、と思ってだらだらしてたとか。
だらだらとかグズグズというのは知らない間に忍び寄ってくるものだ。

知らないうちに取りつかれて、気が付いたらあっという間に時間を食われる。

だから「意識してだらだらする」というのは実はダラダラしていない。
むしろかなり充実している結果をもたらす。(自分の場合。よほど時間の使い方が下手なのか)
だから「意識したダラダラの直前」はむしろ高揚感を感じるのは自分だけだろうか。

「今日は予定は何にもなし」「急ぎの仕事も用事もなし」で迎える休日は、実は普段できなかったことに思いが至り、積年の宿題を片付けたように精神衛生上とてもよい。
だからといって「ダラダラする日」を予め手帳に入れても、何だかそわそわしてうまくない。

思わぬ空き時間に「よしダラダラするぞ」というタイミングが一番ダラダラにはいい環境なのだろうか。

ちょっと違うけど、朝の慌ただしい時間にわざと30分くらい空白の時間を作って「グズグズしていいぞ」という時間はかなり楽しいことを発見した。
意識して力を抜くというのも結構な技術なのではないだろうか。

・どうも、ちょっと疲れちゃってる感じがあって、
 昨日は夜の予定をひとつやめにして、
 その時間をボーナスとして「だらだらする」のに使った。
 といっても、ジャムを煮たり、野球中継を観たり、
 マンガを読んだりしていたので、
 あんまりだらだらしたとも言えないかもしれない。
 「ボーナス」としてもらったつもりの時間なので、
 それがうれしくて、積極的になにかしてしまった。
 なにかから逃げて、つまりするべき仕事があるのに、
 それをしないで、野球やジャムやマンガに向うのは
 「いい時間」ということになってなかったんだな。
 それが、「だらだらする」と決めて同じことをしたら、
 なんだかわりと「いい時間」を過ごせたと思えたわけだ。

 仕事しなくちゃ、と思いながら休むのは、
 休みになってなくて「働くことから逃げてる」となる。
 同じように「休まなくちゃ」と思いながら働いてるのも、
 「休むことから逃げている」とも言えるわけで、
 どっちもよろしくないのであります。

 いま、仕事をするのか、休むのか、
 それを決めてその時々に臨むのが、とてもよい。
 まさしく、「じぶんのリーダーは、じぶんです」だ。
 きびしくもやさしい先輩のように、じぶんに向って、
 「さぁ、仕事ばかりじゃ息がつまるぞ。
 ここからは好きなように休もうじゃないか」と、
 言ってやってさ、仕事を忘れて遊ぶとか休むとかする。
 こういうのが、いいんだ、そうだそうだ、そうなんだ。

 では、どうしてそれができなかったんだろう。
 たぶん、あれとおんなじなんだと思う、二度寝ってやつ。
 よく眠ってるときには、眠ってることを意識できない。
 いったん起きてから、起きなきゃなと思いながら、
 「いや、もうちょっと」と寝てるときには、
 「ああ、わたしは寝ている」と意識していられる。
 そっちのほうを、「寝ている」だと思いやすいのだ。
 休まなきゃと思いながら働いているとき、
 働かなきゃと思いながら休んでいるときは、どっちも、
 「なんかがんばってるような気になれる」のだと思う。
 じぶんというリーダーと、よく話しあってみます。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
実は、働くと休むって、分けられないとも思うんだけどね