藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

貯めるキリギリスに。

糸井さんのブログより。
勝ちか負けか。
右か左か。
保守か革新か。
善人か悪人か。
何でも二元論で考えると分かりやすくて、間の余計なことを考えずに済む。
だから何でも型にはめてしまい思考停止に陥りやすい。
と思っているので普段から自分に注意しているのだけれど、自分はアリかキリギリス?と問われたら間違いなく「アリ」だと思う。
けれど毎日ひたすらに勤勉かというと全然そうでもないのだった。

自分がイメージするキリギリス型の人というのは華々しく、自分の才能を駆使して稼いだり、成功している人の印象が強い。
プロスポーツ選手とか、ミュージシャンとか。
寓話ではキリギリスは蓄えをせずに滅んでしまうけれど、貯えをするかどうかはその人によるだろう。
「一年でひと月だけ働く」という生活はどこか憧れがあるけれど、果たして自分に耐えられるだろうか。
後の十一ヶ月にまたセコセコと手間仕事などしてはいないだろうか。

キリギリス型の「遊ぶ才能」というのも備わっていなければ、どうにも身に付かないような気がする。
FPをしている友人に聞いたら、貯蓄が最も多い職業は公務員夫婦だと聞いた。
稼ぐ才能、遊ぶ才能、貯める才能はそれぞれ個別に鍛えなければならないのだろう。

・おそらく、ぼく自身は、はたらくということについて、
 かなり農耕的な考え方をしていると思う。
 大地を耕して、そこに種をまき、手入れをして育て、
 実がなったら収穫し食べる。
 無意識に、そういうパターンで考えているように思う。
 
 季節によって、雪や日照りがあったりすると、
 その農耕のリズムはちがってしまうのだろうけれど、
 なんにせよ、毎日こつこつとはたらいていれば、
 それなりの収穫が得られて、生きていけるという思考。
 農耕などやってないくせに、
 そういうことが基本だと思っているのだ、たぶん。
 
 だから、「アリとキリギリス」の寓話についても、
 こころの奥では、じぶんをアリの側に置いている。
 キリギリスのなにがいけないんだ、と文句は言う。
 なんならキリギリスの味方になるくらいのつもりはある。
 ただ、じぶん自身や、じぶんの周囲の親しい人に、
 「歌っていようよ、冬のことなど考えないで」
 とは言えないで、せっせとキリギリス分まではたらく。
 実際に、毎日労を惜しまずに、
 せっせとはたらいているかといえば、
 そういうことでもないのだけれど、
 アリでいることが大事なのだと肝に銘じている。
 脈々と体内を流れる血のせいなのだろうか。
 
 世の中には、そうでないはたらき方の人がいる。
 高価で取引されるトリュフを探している人たちや、
 いのししや、熊の猟師として鉄砲を撃ったり、
 肉を捌いたりしている人たちもいる。
 そういう場面ではたらいている人たちは、
 農耕的な、毎日こつこつとなにかを蓄えていくのとは、
 まったくちがうやり方をしている。
 それを「安定がない」「獲物が読めない」と
 批判することは、とてもたやすい。
 だって、ちがうんだもの、生き方がね。
 一年のうちの、ひと月だけはたらく生き方というものも、
 ほんとうは、なんにもおかしくないはずなんだよね。
 じぶんのこころのなかのアリさんに、そのあたりのこと、
 よくよく教えて行かなくてはならない‥‥と思うのだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
あんがい、じぶんがいちばんアリ思考なんだと思うんだよ。