ほぼ日より。
それは、あっけないくらいの、ただのほんとのことです。
「はずれくじは、ない」ということ。
そういえば「人生に消しゴムはない」と言っていた先輩がいた。
糸井さんではないが「ああ、そうか」と今ごろ気づく。
勝ち組とか。
成功者とか。
合格とか。
出世とか。
結婚とか離別とか。
そのみんなの反対のこととか。
いちいち整理しやすいから、自分たちは「どっちか」で考える。
心の手抜きというか。
けれど現実はそういうことでもない。
さらに続く。
「はずれ」だと思ってたものは、「ふつう」です。
もっとくどくどと言えば、「当たり」だって怪しい。
「当たり!」と思った瞬間に自分たちは何かを失う。
謙虚さとか哀しみとか。
周囲への配慮とか。
今日のほぼ日は名言だ。
わからなくても憶えておこう「はずれくじは、ない」と。
ほぼ日刊イトイ新聞
・受験だとか、就職だとか、人生のなかで、
どっちに進むのか、どっちに選ばれるのかについて、
真剣に考えることは、何度かありますよね。こんなふうに落ち着いて言っているぼくは、
高校の合格発表の前の夜に、どういうわけか、
近所の人と家族の間のひそひそ声が耳に入って、
「落ちたのか!」と勝手に決めて、
布団のなかでひとり泣きしていた経験があります。
あとで思えば、なんで近所の人が、
おれの受験の不合格を知らせにくるんだっつーの。
どんだけか、ばかな15歳だったんですね。
なんでしょうか、あの「生か死か」みたいな切迫感は。ある学校に受かったということと、落ちたということ。
また別の学校に入れたということ、浪人すること‥‥。
道は、いくつかに分かれています。
いくつかに分かれていて、それについて、
「じぶんはどうなりたい」という希望はあると思います。
それは、会社に入ることについても同じですよね。
そういう局面の当事者のときには
見えなくなることがあります。
ぼくも、ずっと人生のらせん階段をぐるぐる回ってきて、
「ああ、そうか」と、いまごろ気づいたことです。
それは、あっけないくらいの、ただのほんとのことです。
「はずれくじは、ない」ということ。
どれにしようか、どっちにしようかというような場合、
たしかに希望したい「当たり」はあるんです。
だけど、その「当たり」以外が、
「はずれ」というわけでもないんだなぁ。
これ、わりと、見えにくいし、忘れている事実です。大事な判断というと、すぐに「天国か地獄か」とか、
「生か死か」「成功か失敗か」「プラスかマイナスか」
なんて、一方が正解でそれでなければ最悪と
考えやすいんだけど、それはちがうんですよ。
「はずれ」だと思ってたものは、「ふつう」です。
もっとくどくどと言えば、「当たり」だって怪しい。
「当たり」を引いたおかげで、道を失うことだってある。
わからなくても憶えておこう「はずれくじは、ない」と。今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「はずれくじ」も、何枚か集めると当たりと交換になるよ。