藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

締め切りの感覚。

なんと。
定年制には確たる法的根拠はないらしい。
しかも日本特有とか。
しかもルーツは江戸時代の大奥の30歳行事だという。
知らないことばっかりだ。

あなたの毎日が充実していないなら、それは「終わり」を意識していないから。
と言われたことがある。

だから若いうちは間延びしている。
五十路を過ぎると相変わらず間延びしているが、結構「締め切り」は迫っていることを日々何度かは意識してしまう。
せめて三十代くらいから「このくらいのメンタリティ」で時間を使っていれば、もう少しまともな人生になっていたかしら。

悔やんでも儚く。
これからのメンタリティに気をつけるのみだ。

定年がうらやましい

 私(55歳)もいよいよ定年(60歳)の年齢に近づいてきているのだが、いかんせん自営業なので定年がない。

 若い頃は「いつまでも働けていいよね」などと羨ましがられ、それを真に受けたこともあるが、定年がなくても体力には限界があり、いつまでも働けるわけではない。

 定年で辞めると、職場で花束などを受け取り、皆に見送られたりして、さぞかし寂しい思いをするのだろうと想像していたが、実際に親しい編集者たちが次々と定年退職していくと、定年がないせいで、私のほうがひとり置き去りにされていくようである。

 定年があれば「しばらくのんびりしたい」とか「第二の人生」などと言えるのだろうが、定年がないと、これまでもずっとのんびりしてきたような気がして、第二の人生どころか、第一の人生すらまともに送っていないことに終生苛まれるのではないだろうか……。

 というわけで私は昨年来、「定年」を取材している。定年がないので、せめて「定年」を習得したいと思い立ったのだ。

 定年とは「定められた年」。一体、誰が定めているのかと調べてみると、公務員を除き、この制度自体を義務づけた法律はどこにもない。欧米ではむしろ原則的に禁じられており、どうやら日本独自の慣習のようなのだ。考えてみれば、一定の年齢になると解雇されるというのは明らかな年齢差別である。労働組合などが反対してもよさそうな制度なのだが、歴史を遡ると、組合側も「雇用保障」のために定年制を要求していたりする。経営側は高齢者の排出のために定年制を望むわけで、労使が協調して「定年」を求めていたのである。

 これはひとつの伝統文化ではないだろうか。

 実は「定年」のルーツは江戸時代の大奥だったらしい。女性たちは30歳になると「●(ころもへんに因)褥御斷(おしとねおことわ)り」になったという。出産が難しくなるという理由で、殿様の相手を辞退させられた。それに従わないと「好女」と陰口を叩(たた)かれ、揉(も)め事の原因になるからだそうだ。

 その伝統は明治以降も受け継がれ、工場などでも女性の定年を30歳としたり、結婚や出産を「定年」と見なしたりしていた。年齢差別に加え女性差別までしてきたわけで、やはりどこかで撤廃されるべき制度だったように思えるのだが、年齢が調整されるだけで、なぜか今も存続している。

 もしかすると「定年」という言葉のせいではないか、と私は考えた。

 定年は戦前までは「停年」と表記していた。それが昭和30年頃(ころ)から「定年」に変わっている。これは無意識のうちに「定め」というニュアンスを込めたのではないだろうか。「停年」だといかにも辞めさせられるようだが、「定め」なら宿命のようで従うしかない。それをいちいち言挙げしないのが日本人である。

 実際、定年退職した人々に会ってみると、誰もが素直に定年を受け入れているようだった。「本当は辞めたくない」「もっとやりたい仕事があった」などと言う人はひとりもおらず、「定年は定年だからね」などと答える。未練のようなものはまったく感じられず、再雇用される人も「家にいると女房に怒られるが、会社なら誰にも怒られない」という理由で、会社を避難場所として利用していたりする。

 あきらめがつくのだろうか。七五三や学校の学年のように年齢で区別されることに慣れているからだろうか。あれこれ思いを巡らすうちに私ははたと気がついた。

 定年は〆切(しめきり)のようなものではないかと。定年も〆切も日付が決まっている。デッドラインというくらいでその日が来たら終わり。終わりというと絶望的な感じもするのだが、生来の怠け者である私は〆切がないと一文字も書けない。正直に言うと〆切になってから書き始め、なぜもっと前にやっておかなかったのかと後悔し、自らの文才のなさに打ちのめされたりするのだが、〆切時間がいよいよ迫ると、不思議なことが起こる。

 自分の書いたものが突然、面白く思えてくるのだ。切羽詰まると「これでいいんだ」と脳が錯覚を起こすようなのである。原稿は直そうと思えばいつまでも直せる。生きているのだから直す余地は常に生じており、直すことはそれこそキリがない。錯覚がなければ世に出せないわけで、錯覚を与えてくれるのも〆切なのである。

 終わりが定まっているから仕事になる。一般的に死が終わりとされるが、死はいつになるのかよくわからず、近づいたり遠のいたりして、その日の気分に左右されてしまう。その点、定年という終わりは〆切同様に不動。おそらく定年があるから入社もあるのだろう。会社を出る人がいるから入る人もいる。出るから入り、入るから出るのだ。

 そういえば「出世」もこれに似ている。出世とはもともと仏教用語で、「世を出る」、つまり出家を意味していた。ところが日本ではいつの間にか、世の中で成功すること、「世に出る」ことに変わっていった。意味としては反対のことに転じたのだが、町から出れば隣町に出るように、世を出ると別の世に出るわけで、その過程を「出世」と呼んだのだろう。そう考えると「定年」もひとつの出世なのだ。

 定年が羨ましい。

 私はしみじみとそう感じている。定年は明確な区切りであり、区切りがなければ人生は物語にならない。実際、私は「どういうお仕事をされているんですか?」と訊(き)かれても、いまだに返答に窮するくらいなのである。

 たかはし・ひでみね ノンフィクション作家。1961年横浜市生まれ。東京外国語大卒。著書に「『弱くても勝てます』 開成高校野球部のセオリー」など。