藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

リアルタイムのやり取りで。

自分たちは言葉で意思疎通をするけれど、100%伝わっていることって少ない。
ひどい場合には言いたいことが「完全にま反対」に伝わっていることも珍しくない。
そしてしばしば「言葉が足りない」ということがある。
仕事でもプライベートでも「相手を思いやる」という「のり代」がなければ、言語のコミュニケーションというのは結構危ういものだ。

誤解はコミュニケーションにおける渋滞、だという。

これほどメールやLINEが発達したから、さらにその先のコミュニケーションが問題になってきているという。
より早く。
瞬時に。

より細かく。
繊細に。
いよいよネットコミュニケーション社会、は「速さ」だけでなく「細やかさ」を求めていくのかもしれない。
でも、案外若い人の伝える力とかニュアンスの細やかさ、というのは十分今の時代に通用するような気もする。

「で、どう思う? 」
「うん、微妙」とか。

誤解とは何か 東京大学教授 西成活裕
 大学の先生のイメージとは、一般的にはどのようなものだろうか。理系だと白衣を着て難しい話ばかりする人、文系だと研究室に閉じこもって文学作品を読んでいる人、という声が周囲から聞こえてきた。確かにそれに近い人はいるのだが、もちろんそうでない人も多い。これは政治家、警察官、医者などにも当てはまることであり、私たちはどうしても先入観を持ってしまうため、それが誤解を生む原因になるのだ。

 誤解は相手の先入観だけでなく、自分が原因であることも多い。その大きなものが、話す際の省略である。時間がないときなど、どうしても内容を一部省略して報告する必要がでてくる。時間があっても全ての情報をきちんと伝えるのは無理であろう。そうなると相手は自分の意図とは異なる形で補うために誤解につながっていくのだ。

 誤解はコミュニケーションにおける渋滞ではないかと考え、以前に「誤解学」という本を書いた。様々な事例の分析により、誤解は受け手の先入観と話し手の省略が主な要因で起こると分かった。省略が多くなるメールは特に注意が必要で、込み入った内容を伝える場合はできるだけ直接会った方がよい。会うのは時間をとられて面倒だと感じるかもしれないが、その方が結局、問題が早く片付くこともあるのだ。

 また、誤解のプラスといえる面にも気が付いた。それは誤解によって人々の考えに自然に多様性が生まれるということだ。様々な意見があることは、健全な社会のための重要な要素である。誤解は一般的には悪者扱いであるが、多様性をつくる仕掛けだと思えば少し見方も変わってくるのではないだろうか。