言葉は自分たちのコミュニケーションの大部分を占めている。
表情とか以心伝心というのもあるが、確たるコミュニケーションは言葉のやり取りだ。
「あなたは間違っている」と言われて素直にそうか、と思える時もある。
けれどなぜ?何が?理由は?そんなはずはない!と思うこともむしろ多い。
そんな時には「自分が納得する理由」が欲しいのである。
それが自我という物だろうし、だから人は考えるのだと思う。
「勉強しないのはかまわないけれど、
なんにも力がないままだと、
ともだちを助けることもできないだろ?」
これは「勉強って必要だよ」ということの一つの伝え方だ。
重要なのは「あなたには自由がある。けれどそれでは…」という"相手を許容する表現"じゃないだろうか。
端から自分を否定されると、人は「その後」について反発し「内容のいかんを問わずに」判断したりする。
人は感情の動物だという報告もある。
自分の日常で、仕事にせよ生活にせよ恋愛にせよ「まず、相手に伝えたいこと」がある。
ところがそれをストレートに伝えると「まず相手の感情に響い」て最初に感情のセンサーが働く。
そうするとその後の「テキストのメッセージ」が伝わらない。
最初に感情のフィルターがかかってしまったのだ。
仕事でも友人同士でも異性関係でも常にある。
折角伝えたいことがあるのに「先に感情が立つ」。
結果、一番伝えたいこととか思いやりが消されてしまうこともある。
自分たちは「まず認めてもらいたい」という生き物なのじゃないだろうか。
そして「相手に認められた後」ならかなり辛い内容でも、きちんと考えることができるのではないだろうか。
そして、感受性の高い人というのは、この「相手に認められるという手続き」を必ずしも経ないでも「相手の意図を慮ることのできる人」なのではないだろうかと思うのである。
まず相手を否定しないこと。
認めること、というのは巷で言われる「伝える力」以上にまず「感情の関所を取り払う」ような姿勢なのではないだろうか。
人が感情の動物なら、ちゃんと「そういう生き物とのふれ合い方を身に付ける」ということは大事なことだと思うのだ。
・「じぶんを信じて」という励まし方は、よくある。
あれこれと、余計なことを考えるのではなく、
いつもの「じぶん」のやっていることを、信じる。
たとえ、それが、完全でないとしても。
このアドバイスは、まちがいないと思っていた。
そうだろう、そういうものだ、と。しかし、そうとは限らないぞ、とわかった日がある。
へたな釣り人のぼくが、
ローカルな大会に出場していたときのことだった。
試合の前日、霞ヶ浦でのことだった。
気の好い先輩に、なにか助言をもらおうとしたら、
「じぶんの釣りをすることです」と言われた。
そうだろう、そういうものだとは思えなかった。
なぜならば、ぼくは、へたで不勉強すぎる選手なので、
「じぶんの釣り」なんて、まだ持ってなかったのだ。「じぶんを信じて」だとか「じぶんの方法で」だとかは、
最低限でも、なにかをやってきた人だけの姿勢なのだ。
信じるだけの「じぶん」をつくれてないときには、
どうしょうもないのである。
基礎の基礎、基本の基本は、なにをするにも必要なのだ。
早い話が、浮輪をつけていながら、
水泳の大会にでるようなことはできない。どちらかと言えば、ぼくは、
なにかをするのに資格が要るだとか、
シロウトはひっこんでいろなどと言うほうではない。
しかし、「じぶん」のかたちがないままに
なにかをすることはできないということだけは言える。「そのままのわたしを愛して」だとかも同じなのだが、
その「わたし」という「じぶん」というのは、
どういうものなんだ、ということだけは問われている。
うちの子どもが小学生のときに、
「勉強しないのはかまわないけれど、
なんにも力がないままだと、
ともだちを助けることもできないだろ?」
と言ったことも思い出す。
それやこれもありつつ、「じぶんを信じて」だじょー。今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
そして、それはそうとなんだけど、釣りがしたいなぁ‥‥。