藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

知識はどこからそうなるか。

今や右脳、左脳という単語はかなり普通に使われている。
けれども実際にそれを目の当たりにして「知っている人」は少ないはずだ。

つまり自分たち日常の中で、聞いた知識である「左脳は論理を司り、右脳は直感やイメージを担う」ということを「自分の持っている知識」として語ってしまっている。

例え話として「論理と直感」を考える比喩ならいい。
けれど「君は右脳人間だね」とか「左脳をもっと働かせたほうがいいよ」などと言われるとどうにも妙な気持ちになるのは自分だけだけだろうか。

まあそれはともかく。

「たった今とってつけた情報」と。
「かなりの文献なり研究なりに触れた上での定説とか」と。
「さらにそういう知識を自分なりに何度も揉んで、寝かして「自分型」に仕上げた話」と。
「自分の実体験を通して得た確信的なこと」と。

自分たちの日常はこういうもので混ざり返っているものだ。

日常の話の中には、単なる噂話もあるし、時事ニュースのネタも多いだろう。
単に友人に共感しているだけのこともあれば、「自分の経験の中で確信している話題」もある。

自分以外の他人(別人格)と話すとき、「噂話から血肉の確信」までを、私たちは日々使い分けてコミュニケーションしている。
難しい話のようだが、互いに微妙な「会話の重み」は結構正確にやり取りされているようだ。

つまりは「確たる知識や情報のやり取り」だけがコミュニケーションなのではなく、
噂話やあり得ない想像のことまでも、どんどんやり取りして互いを刺激し合うことこそが「対人の妙」ということなのかもしれない。

嘘も相手は分かっていると思ったほうがいい。