藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

いろんなサーフボード。

日経プロムナードより。

世間では、知っていて当然とされる事象の波が、次から次へと生まれる。その波をサーフィンのように乗りこなしてきたが、四十代半ばにして、ついにサーフボードから落っこちた気分だ。

スマホを使いこなすのに苦労したと言う小さなエピソード。
でもこうした「波乗り」は自分で気づくよりもはるかに多く起きている。

テレビを全く見ないので芸能ニュースは年配者の訃報くらいしか認識できない。
SNSの輪からは既に「落っこちて」しまった。
プレゼンの原稿は手書きでスタッフに渡すようになった。とか。
こうしていつしかIT劇場からは退出することになりそうだ。
(ようやく本に戻るような気がする)

脳のメモリとスマートフォン ジェーン・スー
 スマートフォンの動作が鈍くなってからしばらく経(た)つ。様々なアプリを起動させるのに、恐ろしく時間がかかってしまう。待つのはたった数十秒だが、それがひどく長く感じられるのだ。詳しい人に尋ねると、メモリ不足が原因だろうと言われた。

 スマートフォンの設定をいじり、開いたこともないストレージフォルダを開く。すると、保存した画像は八千枚強もあった。内容は撮影した写真、友人から送られてきた画像、インターネットでダウンロードした画像など。これが動作を鈍くしているらしい。それにしても、八千枚は多すぎやしないか。四年ほど使っているが、それでも一年に二千枚以上だ。つまり一日に五枚以上になる。
 私は写真が趣味ではないし、SNSに活発に写真を投稿するタイプでもない。さっと画面をスクロールすると、どうでもよい写真ばかりだった。だが、消去するのはなんだか勿体(もったい)無い気もした。
 外部SDカードなるものに画像データを移行すれば、少しは動きがよくなると聞き、炎天下に渋谷の家電量販店へ足を運んだ。暑さのせいで全身汗だくだ。これを機に別メーカーの新機種を購入しようかとも思ったが、私が長年利用しているキャリアが扱う新作は、どれも十万円近くした。今度はドッと冷や汗が出た。
 店員に外部SDカードの売り場を尋ね、八ギガのカードを購入することにした。それがどれほどの容量だかわからない。だが店員はこれで画像データ分は賄えると言う。試しに店内で装着してみようと思ったが、ちょうど電池が切れてしまった。充電させてもらえないかと尋ねると、百円かかると言う。勿体無いので家で試すことにした。
 帰宅後、早々にスマートフォンを充電器に繋(つな)ぎ、いやいや、外部SDカードを装着するなら電源を切るのが先だと電源を落とし、裏側のカバーを外す。すると、充電池の右上にちょこんと、買ったものと同じメーカーの外部SDカードがあった。
 外部SDカードは最初から装着されていたのだ。私はそれに四年も気付かなかった。小指の爪ほどのカードを見ると、十六ギガと書かれている。さっき買ったカードの二倍の容量が未使用のまま目前にある。あーあと大きくため息をつき、私はカバーをもとに戻した。
 世間では、知っていて当然とされる事象の波が、次から次へと生まれる。その波をサーフィンのように乗りこなしてきたが、四十代半ばにして、ついにサーフボードから落っこちた気分だ。
 よくわからないことなのに「勿体無い、勿体無い」と言い続け、結局は損をしたのも悔しい。無駄な写真なら消去すればよかったし、店で充電を試みれば外部SDカードは装着済みと気付け払い戻しもできただろう。この手のトラブルが自然に回避できなくなったのが、なによりの加齢の証だ。
 インターネットで方法を調べ、データは無事に移行できた。改めて画像群に目を通すと、本当にどうでもよい写真ばかりだ。しかし、ひと目見れば忘れていた小さな思い出が湧いてきて、楽しい気持ちになった。
 スマートフォンの画像フォルダは私の脳にとっての外部SDカードなのだろう。私の脳はすぐにいっぱいになってしまうから、小さなことでも心が動いたら、すべて写真で残すのだ。
(コラムニスト)