藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分の責任で。

就活、婚活くらいまではなるほどな、と思ったが。
妊活とか離活とか、そして終活。

死ぬのになんでそんなに活動がいるのか。

何か社会が騒ぎを煽られているなぁと感じるのは自分だけだろうか。
「引き取り手のない遺骨」。

そもそも遺骨とは何か。
「自分の死んだ後の骨」を重んじるのはある種の神性があるようだが、それも信仰とか宗教次第だろう。
遺骨の引き取り手がないのは、「引き取り手」の数がどんどん少なくなっているからに違いない。

親の遺骨を子供が引き受ける、というシステムが破綻しつつある。
お墓の数も、今のままでは維持は難しい。
こうした話は高齢者の介護と同様、当事者である「高齢者自身」が声を上げる以外に解決はないと思う。

「自分の死後のことは、自分で宣言していこう」という話だ。

残った血縁者に、あれこれと面倒をかけないことこそが責任というものだろう。

行政に頼る前に、まず自分の「終了宣言」が待たれるのではないだろうか。

行政が補い地域で支える終活 神奈川県横須賀市長 上地克明
引き取り手のない遺骨が近年、増加している。少子高齢化の進展に伴い、家族や地域のつながりが弱まっていることが背景にあるようだ。
神奈川県横須賀市でもこの20年で急増し、今や年間数十件にも上っている。こうした遺骨はこれまで身元不明のものに限られていたが、今では9割以上の身元がはっきりと分かっている。正直驚きを隠せなかったが、これが現実である。
行政としては、たとえ身元がはっきり分かっている遺骨であっても、引き取り手がなければ、無縁納骨堂に納めざるを得ない。そこには亡くなった方の意思は反映されない。個人の尊厳にかかわる問題だけに、市長としては忸怩(じくじ)たる思いを抱いている。
「終活」は今、全国的にブームとなっている。自らの死に向き合い、自らの最期について考えることは、自らの生き方を考えることでもある。現代社会において今後ますます重要になるだろう。
民間事業者の終活支援も充実してきているようだ。しかし、民間事業者の努力だけでは準備した書面などがどこに保管されているのか、わからなくなる危険性がある。終活で準備した本人の意思をしっかり伝える仕組みを構築するのは難しい。本人の意思が尊重される環境が必要だろう。
横須賀市では今年5月から「わたしの終活登録」という事業を開始した。年齢や家族の有無にかかわらず希望する市民なら誰でも、緊急連絡先やエンディングノートの保管場所、墓の所在地など11項目を生前に登録できる制度である。墓の所在地については、本人の死後、墓参を希望する全ての第三者に開示することとしている。
この事業を始めるにあたり、ふと頭をよぎった一節がある。夏目漱石の「坊っちゃん」の結びだ。一人、坊っちゃんを支持したばあや、清の次のような話で小説は終わる。ばあやは死ぬ前日に坊っちゃんを呼んで、清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めてくださいと頼む。「お墓のなかで坊っちゃんが来るのを楽しみに待って居ります」というので、「小日向の養源寺」に墓があるというくだりだ。
誰にでも自分らしい終わり方があるはずだ。これまでその希望をかなえるのは、残されたものの役割だった。しかし、社会状況は変わった。足りない部分があるならば、そこは行政が補う。行政のあるべき姿ではないだろうか。