藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

生い立ちについて


母(信子)は京都生まれ。幼児期に近江舞子にいたこともある、聞いたが、実家は
市内、中京区御幸町丸太町下ルにあった。


御所の真南の屋敷で三百坪ほどもあった大きな家で、古地図をみると松平家のものだった、とある。


昭和五十年過ぎに伏見に越すまで、里帰りはここだった。
幼児の自分には迷子になるほど広い家で子供達の部屋まで続く何十メートルもある廊下や、
一度靴を履いていかねばならない風呂や離れなど、が印象に残っている。


母の父(祖父)は商社を興し高度成長の波に乗った商売人で、例年、正月には五人の子供達やその子たち(孫)数十名が集まるのが慣わしだった。


母は堀川高校から京都女子大へと進み、卒業してすぐ父と結婚。
父とは高校時代のクラスメート。


父は結婚時は大学四年だったというから、ずい分ススんだカップルだ。


いつも多趣味


その後家庭を持ってからの母は本が好きで、ずい分後になってから「この人は文学少女だったのだな」と思ったことがある。


祖父は自分が貧乏した反動からか母にはずい分いろいろと習い事をさせたようで、自分が知る限りでも「お茶・お花・日舞・お琴・習字・料理」などの免状を持っていた。


実家にある大きな黒塗りの「琴の箱」は何か不気味な柩のようで幼心に恐かったのを思い出す。


結婚してからは習字を習い、教えるようになり、スケッチから水彩画を始めたりして最期まで「趣味を楽しむ人」だった。


今見るとかなりのお嬢様育ち、かと思うが日常生活はかなり慎ましく宝飾品などもそれほど好まずにいる人だった。


村山リウの講じる「源氏物語」にかカルチャースクールから、しまいには全集や講演録のカセットテープまで揃えて研究する熱の入れようで、幼い頃、たまたま連れられ村山さんに「今日は若い生徒がお越しだわ」とからかわれ、赤面してたのを思い出す。


今思えばお嬢さんぽい気質ながら、どこか男顔負けの大胆さがあり、「キップのよさ」のようなところでずい分周りの人の人望が厚かったようだ。


親戚や友人、昔のクラスメートや近所の人など交友範囲が広く、また結構働き者で、一年中どこかしこかを掃除して回っていた。


父の給料日の前日など、少し余ったお金で「本買いにいこか」とよく近所の書店に走ったことなど、懐かしい。


いつも行動が先で、後から周りが「聞いてないよ」みたいなことが多かったが、最期も同様、通夜に駆けつけた友人たちが「あんた、何そんなとこに入ってるの」と声をかけていたのも、母らしいといえばそうか。


それにしても、逝った時の「不思議な乾燥感」は何だったろう。


それほどの悲しみもなく、一陣の爽風さえ吹き抜けたような気がした。


今思えば、それが「母の性格そのもの」だったのか、と思う。

起きたこと、後からごちゃごちゃ言わへんといて。


みいんな、それまでのこと、ほんでこれからのこと、と。

07-12-05