週末に「ブログ」を想う。
どうも、何か引っかかる…
と、以前から考えていた話とつながる。
いや、頭の中に「放置」してあった考えを見つけたか。
忘れぬうちに収納、収納。
【ブログ進化のプロセス】
時事ネタでも、仕事のことでも、ふと、気になること発生。
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ブログへ書き止め。
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自分の「外付けHD」として、高速検索・アクセス力、大幅up。(ズズーン)
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自分の知的(=銭カネでない、という意味)財産となりゆく。
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自分が死んだら、遺産。
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自分の親や、子のブログ。
孫、ひ孫、ひひ孫、ひひひ孫、ひひひひ…孫のブログ。
先輩と後輩のブログ。
師匠と弟子、孫弟子、ひ孫弟子…
恋人同士のブログ。
もちろん仕事仲間のブログ。特許ネタは非公開で。
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あらゆる形で継承される。
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集積する知。=人類の遺産では?
まずは自分から
自分の両親は京都出身。
親が鉄鋼関連の商売、母方の祖父が創業した。父方の祖父は米を商い、株なども手掛けていたらしい。その先を辿ると9代くらいまでしか判明せず。
檀家寺の過去帳に何か残っているかも、とのことだが定かでない。
すでに「祖父の人生」は、「ある点」しかしらない。
曽祖父となると「幾つかのエピソードあり」。
その先となると「モノクロの干からびた写真二枚」。
人柄や、彼らの時代の経験、世相や人生観など、知る由もない。
「一番遺しておいて欲しいもの」が全然ない。
古い茶道具、お琴や家紋など(失礼ながら)役には立たない。
銭カネには知恵がない。代わりに、
その時代を生きてきた人としての「生の声」や「将来への希望」「教訓・遺訓」が欲しい。
過去については仕方ない。
これからである。
知恵が世代の〝層〟で重なる。−知層−
これまで、連続100年を超えて残り続けてきた「記憶媒体」は〝紙〟だけだという。
それも、戦争で焼けたり、捨てたり。
だが。
ブログのデータは、ひょっとして残りはしないか?
ここから紙に起こしてもよい。
バックアップも取れる。
はてな、のサーバールームで爆破テロが起きない限り、さまざまな媒体に移されるだろう。(テロがあっても、多分保護されてると思うが、こうなってくるとブログのデータ保管、も重要な使命を帯びる。)
これまでは?
アリストテレス、やシェークスピア、ニュートン、ダヴィンチ、モーツァルト、福沢諭吉、坂本竜馬…エラい人の「遺産」はそれなりに遺っている。まぁそれなりに、だが。
大前先生など、早くから「自分の全集が出版される」と仰っていたが、それはハイエンドの一握りの人。
ウチは爺さんのさえ、ない。
いや、3年前に逝った、母のも言うほど、ない。
と、まだ元気な父のも。
web2.0は時代を跨(また)ぐ
ロングテール恐竜くん、の出現で
「死に筋商品」は復活の機会を得、また、ブログでの意思疎通の機会は無限になった。(自称「死に筋思考の復活」)
梅田望夫さん言うところの「一億総表現社会」だが、「一億」ではなかった。
いや、なくなる。
web2.0以降、きゃつらは「集積」していく。
「層」になり。
何世代も、何千、何万年も。
そして、複雑に重なり合う。
盛り上がったり、亀裂が入ったり、断裂したりも。
そして未来人は、
地層ならぬ「知層」から、あらゆる宝物を掘り出すことになる。
化石を掘るほどのことはない。
デジタルである。
欲しいものは一発で発掘(検索)できる。しかも「一ぺん」に。
Web2.0は、人類に「知層」をもたらす。
自分もその「層」の薄い薄い「一枚」となる。
先輩として、家訓として、すべてのこれからのために。
自らのために綴る、ブログ。
自己研鑽。自然に「生き様」や「自分なりの知恵・思考」が刻む。
名家では、昔から似たものがあるらしい。
「住友の家訓」とか「三井の慣わし」など。
企業でいう「行動規範」が遺されている。
売りて悦び、買いて悦ぶ。(三井殊法)
一時の機に投じ、目前の利にはしり、危険の行為あるべからず。(住友)
先義後利。(下村家)
意味ある言葉の凝縮。
だが、もっともっと知りたい、伝えたい。
せめて自分の「周囲の子孫」(血縁かどうか、でなく)に。
遺すは、目に見える「富」ではない。
もし明日、自分の命が尽きるなら、私はブログを書くだろう。