ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)
- 作者: 梅田望夫
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2007/11/06
- メディア: 新書
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構造化の天才、梅田望夫。
その著作を見直すにつれ、自分の感覚では、偉業を「とても明るく」為し、かも先頭を切って進んでいる(方向を指し示している)と思うのだが、まだ「世間の評価」とのアンバランスを感じる。
賛否両論、でなくもっと「絶対的」な評価でもよいと思うのだが。
特に「ネット外」や「ネットインテリ層」ではそんな感じが。
自分は「構造化の天才現る!」とか「ふたたび降臨!ウェブ時代をゆく」とかいう世評でもいいのになあ、と思っていた。
(はてなスターをもらったからとヨイショするつもりなど微塵もない。それは失礼と言うものだ。)
自分の感覚がヘンなのだろうか。
妙だ。
ム。
むむむむ。
理由が分かったかも知れぬ。
あれ。
しつこくて申しわけないが。
自然は飛躍しない。
飛躍しない天才
梅田望夫は飛躍していないのだ。
というか逆に「完全に連続」している。
「連続律」の申し子というくらいだ。
まずウェブ進化論がそうだった。
梅田さんの書き物の特徴はどれも文体が「平易なこと」だ。
特に書籍には顕著で、本人も「これ以上いったら何もない、というぎりぎりまで」共通言語にするという。
そして中身は、先の「構造化、ひたすら構造化」である。
脅威を与えぬ偉業
ちょっとパリの「エッフェル塔」を想像してもらえないだろうか。
エッフェル塔を見て「人類に建設不能だ」と思う人はいないだろう。
なぜなら現に「そこにある」し、近寄れば一本々々の「鉄骨」で組み上げたことも分かる。
だからそこに「神秘性」はない。
連続モノ、として理解できるのだ。
もしある日、忽然と「内部構造の見えないエッフェル塔」が現れたら、我われは「神の遣わしたなにかか」とでも思うだろう。
梅田氏の一連の著作はそういうことなのではないか。
一本々々の鉄骨(文章)にまず「不思議なところ(理解不能な文法)」がない。
そして優れた章立てや論旨などはその「不思議さのない」鉄骨で隙間なく組み上げられている。
離れて「全体」を眺めると、極めて美しく、バランスよく屹立している。
つまり「全体としてはすごい」がどこにも「理解できない部分」がないから「神秘性」というところでソン?をしている。
そりゃそうだ、すべて「構造化」されてしまってるのだから。
(ウェブ時代をゆく、は分かりやすい文章とはいえそれでも苦労したが)
梅田氏がブラックだったなら、「フフフ」とばかり、もとの原稿をベースに難解な言葉と数式、修辞をこらした文章構成で、オーム社(まだあるかな)とかプレジデントとかから出版していれば、「権威」としてはもっともっと重いものになっただろう。
ただそうしないところが梅田望夫か。
徹底して「ダークサイド」には寄らないのだろう。
梅田の建てたエッフェル塔。