最近、何人かの先輩と話すうち、オソロしいことに気がついた。
最近、(映像などで)外部から見た自分は「イメージ上の自分」とは全然違うことに気がついた。
自分が一番見えていないのが自分。
毎日、鏡の前で見ている自分は「最も見る頻度が高い人物」だが、もっとも見慣れすぎてその「判別力が鈍麻している」存在でもある。
よほど顔色が悪くとも気付かない。
しわが増えたり、白髪になったり、皮膚が弛んでいても、まったく気付かず。
二十年も前の写真でも眺めぬ限り、「こんなものかな」と日常を過ごす。
ましてや、顔の表情、目の輝き、声のハリ、姿勢や歩く動作など、「普段の自分」とどう違うか、など自分ではまったく知るすべはない。
「顔の元気度測定装置」とか
「眼力メータ」とか
「はつらつセンサ」とか、そんなのがあれば自分は直ちに導入するが。
まあそれはともかく。
それほど、自分のことは見えないのだ、とあらため。
最悪の評価者
そう。
プロ弁護士の思考術で矢部弁護士が言っていた。
「自分を規定するのは他人である」と。
少し補足。
「自分を規定するのは他人であり、
『自分がもっとも誤った評価』を下すのは自分について、である」
人はみな自分がかわいい。
大事だ。
だからこそ、見誤るわけだ。
これは子供とか親とか仲間、とかにも準じておこる現象でもある。
「うちの子に限って」か。
自分評価のロールモデル思考法
またちょっと脱線。
なので毎朝の「鏡の前の自分」は自分評価のバロメータにはならない。
目盛となるのは、他人だ。
<最近の自分はどう見えるか?>
溌剌としている?それともウツウツとしている?
楽しそうか、ツマらなそうか。
健康そうか、病んでいそうか。
積極的か、受動的か。
明るいか、暗いか。
陰か陽か。
プラスか、マイナスか。
そんなことは人に聞く。
しかも、親しい人に聞く。
そう。
自分の「定点観測」。
そんなことに意見をくれる周辺の人こそが宝物である。
「最近オレって楽しそう?くすんでない?」
自分から、定期的にそんなことを聞ける人を作って「周りから」自分を観測する。
そのくらいの「客観アイ」を持つ必要を感じた。
つくづく、自我とは恐ろしいものだ。