藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

ネーミングの影響。

秀雄。
聡。
隆。
靖。
進。
健一。


命名された時は生まれたてだから、自分で自分の名づけをすることはない。
(後から名前を変えるなら別だが)


そして、「付与された名前」に割と引き摺られるようだ。
みな、自分の名前に対して何がしかの感想や、また(聞いてみた)多くの人は「気に入る点や思い込み」を持っている。
そう考えると、名前というのは因果な存在だ、とも思う。


三者が聞くと、結構驚くことも多い。

「一馬」…先頭を走る駿馬のように
「陽子」…陽だまりのように暖かな
「裕史」…裕福で、名を残すように
「多恵子」…幸多いように
「美子」…美しくあるように。


本人は、その名前と一生付き合うので影響を受けるのは当たり前か。
だからこそ、人に名づけるときにはあれこれと意味を取ったり、画数の演技を担いだりするのだろう。


「名前」の機能について

自分は人の名前には「字の意味・字の姿・発音の語感」という軸があると思っている。
特に近ごろは英語で発音してみたり、などということもあるだろう。

これは自分が子供に命名する時に気付いたこと。


それまでの自分では考えもせず。
どんな子になって欲しいか、と考えるとそれが表出して「言霊」になり、具体的な名前となるのだ。


さらに関係ないが自分の名前は「しげる」であるが外人には(特に英語圏の人)とても発音しにくいらしく、「シゲロ」「シギロ」「セゲロ」「シジェル」「サゲロ」とどんどん原型がなくなっていく。(嘆)


である友人から、そういうのは「アレクサンダー→アレックス」とか
エドワード→エド」とかに略せばいいよ、と友人からアドバイスを受け
しげる→シゲ」に。


でもこれは結局
「セゲ!」とか「シュゲ」になっただけで相手はあまり呼びやすそうではなかった。


そして「シー」と呼ぶ人もいた。
「C」と呼ばれてるようで、余り嬉しくはなかったが、相手は発音しやすかったらしく、喜んでいた。(嘆々)


いい加減には決められない


このサイトは今は「藤野の散文」。
なぜそんな名前なのですか?という質問をよくいただく。(困)


それは、名が体を表しているのだろう、やっぱり。
ブログなどを始めてこのかた、やはり書いている内容に一貫性はなく。
定まらない。


そう言えば思い出した。
三年ほど前、ブログサイトを作るにあたり、そのネーミングには割と悩んだ。
そもそもは梅田望夫さんの「ウェブ進化論」に強い刺激を受け、それが契機だったのだ。

何かこれからの自分を、特にweb上での自分の何かを象徴しそうな気がしたのだ。

これからの自分の志向や、価値観や、興味を表すような、そんなことをプログにも期待していた。


そこで、気づく。

自分は長期にわたって「自分の何か」を「どこか(例えばwebとか)」に書きとめる、ということを未だやったことがない。

だから、文章に書き留めてみて、やり始めてみてこそ、「その先」が見えるのだろう、と。


なら、そんなに確定的な名前など、付けられるはずがない。
せいぜい「散文」だろう、と。

名前は時として、その存在や「志」そのものを表すこともある。
いわゆる「看板」として担ぐのだ、という意味合いもある。


・My Life Between Silicon Valley and Japan
内田樹の研究室
・Life is beatiful
茂木健一郎 クオリア日記
finalventの日記
・元検弁護士のつぶやき
たけくまメモ


みんな、みんなwebの中で何かの「屋号」を上げて何かを公開している。

ブログはまだこの十年のものだし、これからどれだけ形を変えて広がるか、まだ分からない。


web上でのみなさんの「命名」にも注目していきたいと思う。