藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています


早いものであと六年経ったら五十かぁ。。。
などと呆けている。


どうせ五十になっても「なんじゃこりゃ」としか思わぬことを知っている私は「じゃあどんな心境でいたらいいのかな」などと想像する。
半分開き直りか。


まあ社会に大したこともできないだろうが、なんかヒガミおやじみたいになって世間や関係者にブツブツ愚痴る…みたいなのだけは避けたいなぁ。
1.「オレはこうしたら成功していた」とか
2.「オレの選択は正解だった」とか
3.「あの時はしかたなかった」とか。(ドキ)


じゃあどうやったらそんなハメに陥らないですむのかなあ。


後悔の反対。
じゃ納得か。


ありがちなのは、ケース2.の「オレ様正しかった症候群」。
そんなこと聞いてないし。


人ってよほど他人に聞いてもらいたいのだな。
不思議ふしぎ。
最近のもっとも強い興味の一つ「人間の“聞いてもらいたい”欲求」。


あちょっと脱線した。


「後付け」で自分のふるまいを肯定するのは、自分にラクなのだと思うが、あわれだ。


何より「カイゼン」に結びついてない。
で、性懲りもなく同じことを繰り返すのだ。(ドキ)

先日「日々努力を積み重ねる」止まらない船のエンジンと「目的地」と「海図」を意識しよう、みたいなことを書いた。


で、あれと同じだな、と思う。

回想力か


あまり急に「自分の見直し」などといってもピンとこないが。

日々の自分の仕事ぶり、とかアフターファイブ(ふる)とか、何とか一日単位で少し思い返す。

ただ、今日の仕事っぷりは納得できてもそもそも

今の職種でいいのか?とか
今の会社でいいのか?とか
今の人でいいのか?とか・・・


大きな「方向性の視点」がないと、やはり進路を外れる。


まあ道なき道をゆく、なんてのもあるけれど。


なんで
毎日納得でき、
目的地について見失わず、
自分の軌跡がズレていないか、とチェックもたまにできている。


そんなことが習慣でできれば、それ即ち後悔せぬ人生かな、と。
自分で言っててよくわからんなあ。


日々を大事に、と言ったところで、時間は連綿とそれこそ人生の終わりまで続いているし、そんなに立ち止まって思考することは簡単ではなく。

そういうことをも習慣化する、のはまさに7つの習慣だったなぁ、とまたもや今さら。


残暑ボケかなあ。