藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

思考の死角

一つ目のドッキリ。


首相が漢字の読み間違いと。


頻発、をハンザツ。
踏襲、をフシュウ。
未曾有、をミゾユウと。


自分も長らく思惑、を「シワク」と読んでいたから、まあ人のことは言えないが。
(でもプロのアナウンサーでも「さまざまなシワクを含んで」とか言ってましたけど。というか感じの正確な知識って時にそれほど重要なのか疑問にも思う。日本語を豊かにはしているのだろうけど。)


内田樹が斬る。
いいまつがい - 内田樹の研究室

(前略)
麻生太郎首相の言い分はいつも構造的に似ている。
それ自体はたしかに根拠のある一つの「事実」だけをうるさく言い立て、それ以外の(彼が言い立てる「事実」とうまく整合しない)諸「事実」は無視する。

(後略)

これにはドキッと。
これに似た「推論の組み立て方」を自分たちは驚くほどよくしていないか。


アメリカのヘゲモニーの今後にについて語るとか。
オバマの今後について語るとか。
サブプライムローンについて語るとか。
株式市場や原油や金について語るとか。


結婚について語るとか。
仕事について語るとか。
友情やsexについて語るとか。

常に「自分の触れた事実すべて」を等距離に並べ、それぞれの品質を確かめながら「自分なり」の考えを組み上げるのがあるべき方法だ。

他人と話すとき、「自分に都合の良い事実」を並べ、繋げて「それどうだ」というのは知らず知らずのうちに、我われが犯す可能性のあるオソろしい落とし穴かと思う。

こんな態度では、「真に正しい理屈」に出会った時には簡単にその論説はバラバラに砕けざるをえぬ。


これが一つ目。


読み違いが示唆するもの


そして件の漢字の読み違いのこと。

(前略)
首相も70歳近い人間である。これまでの生涯で他人の口から「とうしゅう」という言葉を聞いた機会は数千回、数万回あったはずである。
「みぞう」はそれほど多くないにしても、議会の演説でも、テレビのニュースでも数千回は耳にしているはずである。


にもかかわらずその語の読みを誤ったということは、彼が小学生の頃から60年ほど、自分の知らない言葉を耳にしたときに「これは私の知らない言葉だが、どういう意味なのだろう?」と考えて辞書を引くという習慣をもたなかった子どもであったと推察して過たない。


どうして、知らない言葉の意味を考えなかったかというと、「自分が知らないことは、知る価値のないことだ」というふうに推理したからである。
「無知」というのはそのような自分の知力についての過大評価によって構造化されている。
(後略、青字は藤野の着色)

この後、内田さんはこれではこれからの日本の直面する「危機」を乗り越えることは叶わない、指導者としての資質を問う、という論旨になっている。


それはそれで「危機」というものはなるほど自分の「未知」のものが押し迫って来る時に起きるわけで、それを真面目に捉えぬでは解決は覚束ない、という話は面白い、が。


自分は少し違ったことを思った。

麻生さんは、「自分が知らないことは、知る価値のないことだというふうに推理」するくらいの境遇だったのではないか。と。

スーパーお坊ちゃま、というか、ある意味皇室の人、くらい豊かで、大らかに。
しかし学問の厳しさは身に付かず、と。


知らないことに挑戦すること、こそが学問なのだと自分などは思っている、が「知らないことはどうでもいいこと」という尊大さは学問には向かぬだろう。
とても悪い人には見えないし。


組織の大小を問わず、指導者の資質とは厳しいものだが。


定額給付金も、地方分権も、医師不足も。
何とか改善に「一歩づつ近づく」政策をお願いしたいものだ。