藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

「巨大迷路」の中で、自分が残したかったもの。


ここ四、五年、ずーっと。
「自分探しの旅」というほど洒落てはいないが、それでもずっと探していた。
心のなかで渇望していた、というのが正確なところだろうか。


そういえばブログなどを書き始めたのもそれが原因かもしれぬ。
自分が、遺したかったもの。


それはすなわち今の自分の決算。というか
「自分自身」のことなのだ。。


晴れぬ疑問


自分が生きてきて、都度、何かヘンだぞ、と思ったこと。
何かおかしい、とずーっと感じていた。


そんなものかな、とつい最近まで思っていたが、心の奥底で沸々とわき上がっていた思いの泡。
そんなものに気がついた。どうも、

聞いてないぞ。

という場面が多すぎる。と自分は生きてきた場面で思ってきた。


なんか、

「透明な巨大迷路」のアトラクションに入り込み、見えない壁にガツンガツンと当たりながら、全身コブと痣だらけで日々生きているような感じする。


この巨大迷路には、
入学とか卒業とか、
友人とか恋人とかライバルとか、
病気とか出産とか、
家族とか夫婦とか親戚とか、
結婚とか離婚とか死別とか、
仕事とか享楽とか趣味とか、
子育てとか介護とか、
競争とか協調とか、
お金とか借金とか、
炊事選択とか、お片づけとか、


とにかくありとあらゆるイベントが隠れている。
落とし穴あり、出戻りあり、突然の終了あり。
もちろん急に櫓(やぐら)の上に立って、周囲が一望できるような時もある。

そして、どれ一つとっても「まったく同じものはないこと」も最大の特徴である。
というか、だからガイドブックがないのだ。

人生の楽しみ方、か。


ガイドブックや解答集を作って丸暗記しても、本当の力は養われない。
だが巨大迷路を何十年もかけて進んでゆくときには、基本的な「装備」とか、進んでゆく「姿勢」とか、困難に陥ったときのリカバリの「基礎訓練」とか、そんな事前準備があっていい、というか必要だと思う。

長い人生、楽しみ方を知らねば実にもったいない過ごし方をすることも多い。


『若い人のための人生の言葉』
あるいは『人生の楽しみ方』とか。

自分が何かを残そう、と思った動機はこれまで「いろんなこと」に出会って、行き当たりばったりで「あまりに驚いた自分」がいたからだ。

「まさか自分の後輩とか関係者」にはそんな「行き当たりばったり」は不本意である。お節介でも、

自分の出くわしたイベントくらいにはそこで得た経験とか、感想とか、注意点とかくらいは残さねば心残りでしょうがない。

というのがまったくの動機だ、ということが今判明した。(驚)


ということは、自分が後世に「何か」を語るとしたら、そういうことだ。
そういうことだけなのだろう。


ということで、これからは「そんなこと」をコツコツと続けていこうか、と思う。
散文、という言葉しか思い浮かばなかったブログだが、どうやらその中でも本当に「とりとめないこと」と、明確に「これだけは言っておく」ということに分かれるのだろう。


逆に取り留めないこと、はなるべく省力化していければと思う。


何か少しスッキリした。