藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

勝ち負けの意味するもの。


生きていくのは辛いことばかり、という人もいるし、確かに辛い最中には何か「自分は苦しむために生きているのだろうか」と思うこともある。
が。
人生の巧者たちはそんな局面にもうまく対処している。


ある先輩が呟く。
先「オマエの人生、勝ち越してるか?俺は負け越しだわ。」
自「負け越し?て数の問題ですかね。」
先「ん?そういえば、そうでもないなぁ。痛い負けもあるし、数少ないけど大勝利だってあるよナァ・・・」

「人生の星取表」。

そんなことを考える。
でも「一勝」とはどんなことを指すのか。
そもそも人生で「勝ち」とは何だろうか。
受験とか、出世とか、喧嘩とか、そんな「他人との勝負」の勝ち負けのことだろうか。


どうも違うようである。
全部「自分の中」の世界のことか、と思う。


そうすると自分の人生の中で「勝ち」に勘定できるのはどういうことだろう。
「負け」はどのくらいあるだろうか。

となりの芝生」根性。


大事だなぁ、と思うのは「自分の人生でのプラスとマイナス」などということも、常日頃から意識しないと、中年になってもまだその価値観にプレて「彷徨う」ことになる、ということ。
ご近所の人よりいい暮らしをしていれば「勝ち」とか、同期より出世していれば「勝ち」とか、子供が学業優秀なれば…などとその感覚はかなり原始的である。
同級生よりも、いいドレスを着ていれば勝ち、と自分が広言できるのならそれでもいいが、多くの人は「そんなことではない」と頭では考えている。
だから他人の昇進をねたんで居酒屋でボヤく人も常にいるし、現状の亭主に満足しない主婦もまた多い。


物事を勝ち負けで判断するのは、発奮するにはいい材料だが、つい「勝ち」にこだわって物の本質を見誤るようだ。
「私にとってはこれでよい」という価値観の縮尺を、時間をかけて確立しないと、「他人の家の芝生の色」を見て泣いたり笑ったりすることになる。

星取表の意味。


人生に星取表があるなら、もちろんその表は死ぬ間際まで記録され続け、またそれぞれの「星の意味」も最期に本人が決めるものなのだろうと思う。

つまり、人生は自分の「生まれ持った能力によって」決まるのではなく、
自分が「どのような選択をしたか」によって決まるのだろう。

そう言えば、「柔道の父」と言われる嘉納治五郎は揮毫(きごう)を頼まれるといつも決まって、「力必達」としたためたという。

「力(つと)むれば必ず達す」と読むそうである。

人生の星取表は、最後まで自分で付け、自分が総括するものではないだろうか。