我われはよく言う。
「私は聞いてない」。
自分に関係のあることがらで、聞いていないことなどがあると、無意識的に声を発している。
どうも自分たちにはそういう性質があるようだ。
情報過多の現代では、特にそんな感じが強い。
ある種の「情報恐怖症」である。
リアルタイムから離れること
実は最近、休日に「外部との隔離」を試している。
電話とか、テレビとか、ネットとかメールから意識して遠ざかる。
特にテレビ。
映像の魔力、というか人の脳内情報の八割は目から入るものだ、ということらしいが正に。
目から何か情報を入れてしまうと、脳内がほとんど「それ」だけで思考停止状態になる。
というか占有されてしまうのだろう。
娯楽番組とか頭を使わないエンタメ系の番組などは、見ていて楽しい分麻薬のようである。
で、外部とかかわらない分、内部と向き合うことになる。
そうすると、直接的な時事ネタなどには恐ろしいほど疎くなるが、不思議に長期的なことに関心が向かう。
ネットからも遠ざかって、今後の仕事のこととか、趣味のこととか、老後のこととか(うは)、いろいろ考える。
まあプチ山ごもりである。(いやプチプチか)
ちょっと離れてみること
自分たちはハッと急には気づかないけれど、「少し前」に比べずい分情報化されている。
特にここ十年でネットが台頭してきてからは、「携帯電話とネット」というコンビに大変な影響を受けてきた。
そこで、ちょっと離れてみる。
ちょびっと。
かえって情報に翻弄されないように。
情報が多いと、見失いがちな本質に。
メールして、携帯で電話して、ネットで調べてニュース見て、それだけで一日の結構な部分の時間は費消してしまう。
ほらすぐ回りにいる。
常に携帯をいじって、時間つぶししている大人。
聞くと「ニュース見たり、メールしたり、ゲームしたり」だという。
最近、飲み屋の一人客で、カウンターで延々と携帯をいじっている男女が目につく。
ボーッとするとか、本読むとか、マスターと話すとかすればいいのに、と余計なことを思う。
PCを立ち上げっぱなしにして、常時メールやニュースのチェックをして返事書いたりと「刺激」を続けていれば、そういう刺激に「ずっと反応し続けている」自分がいるようだ。
気づいてみれば、これはなかなかにもったいない。
何か刺激に反応し続ける実験動物のようではないか。
怯えないこと。
我われは、情報がないと不安感にかられるようだ。
情報恐怖症。
でもそんな「情報を摂取し続けている自分」はまるで軽い麻薬中毒患者のようでもある。
もう癖になっているのだ。
そこでぐっと我慢してみる。
携帯も、ネットも、テレビもラジオも新聞も。
そして身の回りの整理とか。
掃除選択とか。
不要な本、積ん読本の整理とか。
そんなゆっくりとした時間の中で、ふと考えてみると、日常忙殺の影に隠れているように、いろいろと大事なことなどが思い浮かぶ。
まあそこでどれほどのことが思い浮かぶか、なのだが、最近発見したのはそんな「情報刺激」を本当にストップしてみることなのである。
まあただそれだけのことなんですが。(呆)
でも気がつけばそれで「習慣」が変わっていたりするのですな。
日常の自分も、実は改善とか、工夫の塊だったりする。
今さらながらに、そんなことを痛感する。
だから、若手に話したいのである。