藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

死ぬまでにしたい10のこと。


自分の余命が分かったら。
えー。
まずポテトチップスと、めんたい&鮭&いくらの合わせ握りを頬張ることから始めて。(その程度か)


それはともかく。
結局は「自身の足跡」を残したがるのが人間なのだろうか。
子供とか、後輩とか、もっと広い意味の若者へ。
自分のつたない経験から感じた何かをただ伝えたい、と思うばかりな気がする。


余命が少なくなってなお、「自分のために」何かをしたい、という気はもはや起こらないように思うがどうだろうか。
極論的な問いかけは、あまり現実とは関係がなかったりもするが、それでもハッとするような思考の切り口になることがある。


究極命題のいいところ


こうした命題は、結局自分自身に「生きる」ということへの途中経過を問う。
自分の人生で「本当にやりたいこと」は何か。
ただ、答えは容易には出ない。
なぜか。


自分たちは残念ながら、明確に自分の意思でこの世に誕生してはいないから。
「生まれ落ちる」と言う表現が示すように、運命的に、あるいは自然発生的にこの世に「生を授かった」のである。
自らの選択、というよりは「授かった」その命をどのように全うするのか。


そういう前提で、「せっかく授かった」自分の運命をどのようにドライヴしてゆくのか、というところに自分たちのルーツは始まっている。
自分の命が限りある、のなら何を今からできるのか、を自分自身に問う、という暑苦しいことを自分たちは、たまにする面白い生き物である。


そこで出てくる価値観。


死ぬまでにしたい10のこと」という映画がある。
余命に限りある主人公(主婦)は、いろんなことを考え、一つ一つ実践してゆく。
思えば、アメリカの映画には、My lifeなどをはじめ、こういう前提のものが多い。
アメリカ人の方が、「命の限界性」というものに敏感だということだろうか。


日本人などは逆に「命の普遍性」みたいなものをテーマにしているような感じがして、なかなか面白い。
日本人に受けそうなのは、「死ぬと分かっているが、敢えて追い求めないこと10カ条」みたいな題名だろう。


まあそんなことはともかく。
限りある、たかだか100年足らずの人生で、何をして、何をせず、どう全うしてゆくのか、というのは若いうちからも考えておいていい話。
映画になるまでもなく、自分たちも「我が人生」の主人公なのである。



いつでも「限りがある」前提で、毎日を暮らすという、堂々とした覚悟を備えるようなことをぜひとも考えたいものである。