藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

再び死に方の時代。

命の終わりが近づいたときに、どんな医療をどこまで受けたいか。

こんな問いが出てくること自体が、いよいよ日本は先進国だ。
同時に成熟期でもあると思う。

だからこれからそんな時代に老いてゆく自分たちは、「老い方」に責任を持たねばならない。

    1. どんな生活の補助が欲しいのか。
    2. 家族に期待することは何か。(家族が応えられることは何か)
    3. 「どんな老後が自分の本分か」←この辺りが一番難しいと思う

そしてようやくACP(アドバンスドケアプランニング)という「終末期のケアの話」になる。
自分の終末の話を「後世任せ」にしてはいけない。
そんな時代なのだ。
のたれ死んでも、それは自分で選びたい。

春秋
2018年12月9日 2:00
彼女は生涯で最高のガールフレンド――。ドキュメンタリー映画「人生フルーツ」に、建築家で90歳の夫が87歳の妻をこう語る場面がある。大都市郊外の雑木林に囲まれた家で、なかば自給自足の生活。穏やかな暮らしが共感を呼び、公開から2年近い今も上映が続く。
▼人生とフルーツ。ちょっと不思議な取り合わせの題が、静かで実り豊かな夫婦の数十年を巧みに伝えた。やると思えばどこまでやるさ、と歌う「人生劇場」では重さと粋。有名な玩具の「人生ゲーム」ならジェットコースターのような激しさ。下につく言葉次第で表情を変えるのが人生の2文字か。いずれもヒットした。
▼これは人々に広まるだろうか。先日、厚生労働省が打ち出した「人生会議」だ。命の終わりが近づいたときに、どんな医療をどこまで受けたいか。ふだんから家族や医師と話し合っておこうと呼びかけ、公募作品から愛称を選んだ。「わが家も一度、人生会議を開こうか」。子が両親にそう語りかける場面などを想定する。
▼発案者は現役の看護師だそうだ。お年寄りが意識を失い、不本意な延命を施されたり、子の意見が割れたり。そうした事態を避ける願いを込めた。大事なのは本人の考えを周りが知ること。結論を焦る必要はないという。なるほど結論不在の会議は世に多い。選考結果に戸惑いの声もあるが、案外うまい命名かもしれない。