藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

過去の達人たち。


社会人になっての二十年で出会った仕事人たち。

正確には学生時代に会った音楽家とか演奏家、芸術家から、これまでの中で。

その中に、けっこう「すごい奴」がいた。

コンサル会社でトップを十年走り続けた人。

外資のトップディーラー。

保険のトップ営業セールス。

ウィーンやドイツ、オーストリアやロシアに留学した少女や、招かれた少年。


彼らを回想して思う。

ひたすら勤勉。

一つの分野での突き抜け方。


特に「積み上げ」が重視される世界なら何でも。
料理であれ、芸術であれ、ビジネスであれ
医師であれ、弁護士であれ、コンサルティングであれ。

その世界で、まず自分が「行きつくところ」まで追求してみること、は「その後」の判断をする上でもとても重要なことではないか。


ただし。
「専門バカ」になるのではない。


もう「その道」意外に生きる術をなくしてしまうようでは、これまた偏りすぎる。
プロ野球やゴルフなどのスポーツに専心した選手は、引退後の身の処し方に不安を覚える人が少なくないという。


だがしかし。
今の時代、自分の選択した「一職業」をまず貫き通す力、を持ちたいと思う。
一事が万事。


「次の世界」でも通用するような貫通力を、まず自分のいる世界で身につけること。


必要条件は同じ


と、ここまで書いて思い出した。
今度、某航空会社の再生の経営責任者のI氏。


講演で「自分はいかなる立場、いかなる逆境からでも一から出発する」と仰っていた。
「明日から、トイレ掃除の丁稚奉公からでも、始められる」と。


自分たちは、ついその分野の専門性、とか
学歴とか、論文とか。
経験とか、実績とか。


そんな「目に見える何か」を頼りにしようとする。
それはそれで「客観的事実」としては重要な指標だが、だからといってその奥底にある「人間そのもの」を見失ってもいけない。


多くの迷える若者に次ぐ。

ともかく、頑張れるか。
そんな当たり前のテーマに、正面から向き合って答えを出せる力、が今の不透明な時代には余計に重要なのではないか、と思い至る。