藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

達人域。


















バンクーパのスケルトン競技の日本代表、越選手は45才。
その名も公式、「オヤジの星」だそうである。(憮)
オリンピックを見ていて、ふと思う。

姿勢。

姿勢には多分二つあって体の姿勢と、精神の姿勢。


精神の話は、またごっつ深いので、それはさておき。
体の姿勢の話。


アルペン競技にせよ、スピードスケートにせよ、フィギュアにせよ。
まあオリンピックに出場するほどの選手は一様に「型」ができている。
どのシーンを捉えた写真を見ても、「決まった」形からはみ出ることがない。
見ていて極限のポーズであろう、その様は「ある芸術品」のように美しい。


そうしていて、また別の機会にオーケストラのライヴを見る。
そして同じことに気付く。

姿勢。


そのオーケストラの団員もまた、「どの場面」を取ってみてもヴァイオリンはヴァイオリン、フルートはフルート、コントラバスはそれの、完全な「型」にはまっている。
ようするにプロフェッショナルとはそういうことでもあるのだろう。


試しにピアノに座ってみて、自分の姿を鏡に映す。
それはやはり「プロ」のそれとは明らかに違う。
よく「形から入る」というが、なかなかどうしてその「型」を身につけるというのは、実は容易ではないことに気づく。


自分たちは日ごろ、テレビや新聞などの報道で、その「プロたち」の非常に美しく出来上がった「型」ばかりを目にしている。
およそその「型」にたどり着くまでの気の遠くなるような積み重ねは、一見しては分からない。
けれども、何の習い事でもいい。
少しでもそういう「道」に分け入ってみてこそ、その「型」の美しさが実感できるのだと思う。


アスリートたちの競技は、その頂点をめざす「高み」に素晴らしい感動がある。
けれども、その頂点だけではなくとも、精神と技術を持つ一流選手たちの妙技は全編に亘って繰り広げられているのだ、ということを再発見した。

スポーツとは「試合結果を記録として比較し、その更新をよしとする競技」

ということだが、その記録の競争が、結局精神の鍛錬を促すことになっているというのは、人という生物の非常に面白い精神性を示していると思う。
精神、肉体両方の鍛錬は、つまるところ人生に必要なエッセンスということなのだろう。

姿勢を、正そう。