藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分に潜む鬼。

自分の自我から解き放たれること。

結局あらゆる武道とか習い事の要諦は、最後にはここにあるのではないか、と短絡ながら仮説してみる。
世阿弥花伝書よろしく、どんなお稽古ごとも、武道も芸術も、そして煩悩の塊のような我われの日常のビジネスとかも。

「自我の解放」。
「自我からの解脱」。


そんなことが核心なのではないだろうか。
もしも、自我が「完全にゼロ」だったらその人はすぐ他人に侵され、あるいは自己を犠牲にして、たちまち「存在がなくなってしまう」とも思われる。

自分を中心に考えられるのは、ある意味「自分だけ」であるから、「一番に自分のことを考える存在」がなくなってしまえば、誰も自分を一番には守ってくれない。

そこに最大の矛盾も潜んでいる、と思うのである。
だから「自我」がムクムクと首をもたげる。
それを「自分可愛し」と思うから、そこに「疑問」はなかなか生まれない。

でも、実はその「自分を一番に考える」というその存在こそが、もっとも自分とっても「危険な」存在なのではないか。


「それ」の存在そのものが、「理性」とか「客観」とか「俯瞰」を失わせ、我が目を盲目にする。

自我から無我へ。

何人も、何者も、理屈抜きに「自分」を第一に考える存在などないこと。

一見「捨て鉢」的なその心構えを備える、というのが人の最終的な求道なのだ、と最近考えるようになった。
「自分は自分として、自分で生きていながら、しかし自分を考えない。」というなんだか矛盾の極致のような話だが。


何かの「感動を伴う仕事」というのはそんな「極致の追求」がもたらすものではないだろうか。
音楽を聴いたり、絵や映画や建築物や、また超人たちの技前を見たときに、私たちの胸を打つのは、決して自我の及ぶところではない。


もっと超然と、「己も他人もない世界」での孤高の仕事に、自分たちは魅了されるのだろうと思う。
そして、アマチュアながらそんな世界に、少しでも近付きたい、と思っている。


自分の人生、しばらく自我とのクリンチが続きそうな予感。