藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分で言いたいこと、は真実か。


口は音を発し、言葉を話す。
昔は食べるためだけの器官だったのかもしれないが、声帯とか舌とかが備わっていて、ともかく喋る。
しかも、かなり高度な言語を操り、細かな表現をすることもできる。


自分たちは、つい「こうしたい」とか思いがあると、喋る。
その話す言葉には自分の「意思」がこもっている。
「何かを意図して、伝えたいから」話す。
ということは「自然に話す」のではなく「意図して話す」のだということになる。


言葉の本意。

例えば

「私は、悪いことをしません。」と宣(のたま)う人がいる。

その人は本当に「悪くない」だろうか。

私は嘘をつかない。という人は信じられるだろうか。

言葉と真実。


自分が相手に「表明したいこと」と「本音」は思い返せばズレていることがある。
「私は仕事相手を裏切りません」というような発言は「そう表明したい」という時に発せられることが多い。
逆に、本当に相手を裏切らない人物は、あまり声高に「そういうこと」を言わないものである。
だから「他人の言葉」の解釈は難しい。


そのご当人の「表明」は本当にその意図なのか、あるいは「そう言いたいだけなのか」ということを推察せねばならないのである。

「語るに落ちる」という表現がある。

饒舌になると、却ってその「真意」が露呈する、という意味である。
自分たちの日常も、そんなシチュエーションが実は結構ある。
「私は自分の利益を意図していない」とか「私のことは二の次で良い」ということをしゃあしゃあと宣うひとほど、じつは「その腹の底」では自己利益しか考えていない、ということは結構頻繁にある。

美辞麗句、は軽々しく使うほどに軽薄さが増すものである。

そう言えば「わが社は『誠実な取引』をモットーにしております」という同業者が手形詐欺で捕まったこともある。
人は、「まず言葉で自らを主張」するよりも、「態度の積み重ね」で自らの評価を相手に委ねるべきではないだろうか。


軽口は常に「沈黙」に劣後するのである。
自らの思いが強いほど、言いたい。
だが「言葉を発する途端」、その表明は陳腐化し、輝きを失う。


やはり沈黙は金、ではないだろうか。