藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

民主化と保護主義の間に


ミャンマーが遂にアンウ・サン・スー・チー女史を解放した。
これは何を意味するだろうか。
単に、再度の拘束をも辞さない、現政府軍側のデモンストレーション、かもしれない。
けれど、この二十年でアジアの情勢もずい分変わった。
ミャンマーという国は、国民性も穏やかで農耕民族が多く、経済発展の主導いかんではベトナムシンガポールのような発展は十分視野に入る国である。
インドや中国、東欧とも国境を接し、ユーラシア大陸の今後要衝となる可能性もあると思う。


最近の、旧共産諸国、例えばロシアとか中国とか、を見てみても、最早「為政者の極端な政策」というものは影をひそめている。
資本主義国も、先進国も、旧共産国も、みな考えるべきは「経済発展」とか「雇用」とか「脱貧困」とかそんな同じテーマになりつつある。
為政者が「国民を食べさせていける政策を営めるかどうか」ということが真に問われる「平和時代の国政」へと移行しているのかもしれない。


ミャンマーが、その地政学的なアドバンテージを活かし、今後の国政をいかにドライブしてゆくか、ということは、日本を含めたアジア諸国にとっても大きな影響があるだろうと思う。
ともかく、あの優しいビルマ国民が、一生懸命働いて、緑豊かな国に多くの観光客を迎える笑顔の国になることを願って止まない。


ついにスー・チー氏の解放は、今度は「まったく新しい意味」を持ってもらいたいものである。


アウン・サン・スー・チーさん解放 7年半ぶり
バンコク=古田大輔】ミャンマービルマ)軍事政権は13日、民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーさん(65)の自宅軟禁を解除した。スー・チーさんの解放は3度目の拘束が始まった2003年5月以来、約7年半ぶり。今も国民に高い人気があるスー・チーさんは、民主化運動を再開するとみられる。

 軟禁は解除したものの、スー・チーさんが総選挙の無効や民主化勢力の結集などを呼びかけ、その影響力が強まれば、軍政が4度目の拘束に踏み切る恐れもある。

 この日午後5時(日本時間同7時半)過ぎ、ヤンゴンの自宅前の道路を封鎖していたバリケードが軍政当局によって撤去された。解放を待っていた多数の支持者らが歓声をあげて一斉に敷地内に入った。スー・チーさんはその後、建物から出てきて群衆に笑顔で手を振った。ロイター通信によると、スー・チーさんは「私たちは目標に向かって力を合わせていかなければならない」と語った。また、14日に自身が率いる国民民主連盟(NLD)本部で演説する考えを支持者に伝えた。

 スー・チーさんは自宅軟禁中だった昨年5月に米国人を自宅に滞在させたことが国家防御法違反に問われ、禁固3年の有罪判決を受けた。その後軍政はこれを1年6カ月の自宅軟禁に減刑し、その期限が13日とされていた。

 スー・チーさんの弁護士によると、スー・チーさんは解放後はいかなる行動の制限も受け入れない意向を表明。NLDは7日投票の総選挙をボイコットして政党としては解党処分を受けたが、選挙での軍政側の不正疑惑に関する証拠収集を進めるなど、スー・チーさんを先頭に選挙の無効を訴える運動などを繰り広げる意向と見られている。

 軍政は、前回総選挙(1990年)の前年にスー・チーさんを自宅軟禁下に置いたが、選挙ではNLDが圧勝。軍政は政権移譲を拒否し、スー・チーさんを国民から遠ざけるため、以後21年間で計15年間、スー・チーさんの行動の自由を奪ってきた。

 軍政が今回スー・チーさんを解放したのは、裁判で決まった軟禁期限が切れたことに加え、20年ぶりの総選挙を軍政に有利なかたちで乗り切ったことが背景にあるとみられる。ただ、スー・チーさんに自由な活動を認めれば、反軍政運動が広がる可能性が高く、軍政は神経をとがらせている。

    ◇

 〈アウン・サン・スー・チーさん〉「ビルマ独立の父」と敬愛される故アウン・サン将軍の長女。インドや英国で政治学などを学び、1985年には京都大学東南アジア研究センターの客員研究員を務めた。母親の看病で帰国した88年、民主化を求める大規模な学生デモと激しい武力弾圧を目の当たりにして国民の前で初めて演説。民主化運動の象徴となった。同年、90年総選挙に向けて国民民主連盟(NLD)を創設し、書記長に就いた。その後、繰り返し軍政によって拘束、軟禁された。91年、ノーベル平和賞を受賞。英国人学者の夫(99年病没)との間に2人の息子がいる。