藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

夢のリアル化。(その二)


昨日、ラジオを聴きながら資料を作っていたら、どこかの大学教授が「日本の格差社会は問題だ。最低賃金を上げるとか、所得の再分配が必要である」とのご託宣。
それほど一生懸命聞いていなかったが、あまりの言説にびっくりした。
学校の先生がこういう論旨なら(日教組?)教わる若者たちも、「格差をなくして補助金を」と本気でいいかねない。
実際の所得格差の問題は政治と関係もしているだろうが、自分はそういう「精神性」が問題だと思う。
あまりに他力本願的。
まず自分でやれることを全てやってみて「かける汗をすべてかく」ということをしないで「他所にその責を問う」というのは典型的な負け犬根性である、と自分は思う。


実際にどれほど裕福なのかはともかく、「毅然」として人生を生きている人はまずこういう「愚痴的」発言をしない。

愚痴=負け犬状態である、と思う。

ちょっと脱線した。

今の自分たちを見てみると、「史上もっとも裕福」だが「もっとも夢のない人々」という気がする。

文明も科学も発達し、ある程度「先が見えた」こともあるだろう。
もう永遠に宇宙開発が広がり、どこまでも「ひたすら利便性の向上」が進むという社会は早晩終わりを告げるかもしれない。

新しい「模範」の模索。


けれど、人間の「生き方」はそれだけではない。
というか、これまでの「バブル紳士」のような成金的なものではなく、もっと違う「精神的な裕福度の持ち方」がこれからは価値観の主流になってゆくだろう。
これこそが、新しい価値観の創出であり、まさに人間の知恵であり、「次の時代の模範の始まり」なのである。

「夢」を食べて生きる。

どうやら我われは、現状の生活が相当に豊かでも、何か「夢」がないと絶望する生き物のようである。

ということはその「夢」を作り出せなければ、自分たちは絶望したまま、というこになりかねない。
「心が死んで」しまっては、生きていけないのだ。
それで、「ニワトリが先」。

「これだ」と思える夢。

自分の将来、やりたいこと、なりたいもの。
これから。
「今」の社会の先に。


過去のハデハデした、煌びやかなものとは違うだろう。

しかしそんな「物質的なもの」よりは遥かに高尚な、そして精神の落ち着きをもたらしてくれる「知的な存在」。

そんなものを自分自身で見つけて、そんな夢を若者に語らねばならない。
それが大人の務めであろうと思う。


今の若者が公務員を志向し、将来を悲観したり、少なくとも「楽しくないもの」と消沈するのは、それはその上の世代の責任ではないか。
みな「今」の自分の親や先輩の世代の「顔色を見て」敏感に感じ取っているのである。
親が絶望的な顔色をしている、しかも周囲で一様に。
それで若者に希望を持て、というのは無理というものだ。


明るい未来は、まず自分から。
ごく当然の結論だが、今一度自分にも言い聞かせたい。