藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

夢の所在。(その三)


「夢の話」を二日にわたって書いていたら、結構反響をもらう。
ただ、若い人からではなくて、三十代が一番多い。
次には「言いたいことは分かるよ」という四十代の人。
さらに、「四十代のうちにそういうこと」に気づきたかったよ、という五十代の人、という順番だった。


お金より、地位より、「夢の方が必要なのだ」という表現は、強く賛同してくれる人と、「まだピンとこないな」という人に分かれたようである。
少し自己目的化するが、「夢をいかに育むか」というのも、自分の人生を歩んでゆく上では重要なことなのである。

夢はもらえるものか。


さて。
肝心の「希望や理想や夢」は人からはもらえる物なのだろうか。

結論。
そういうものではない、だろう。

ラスコーの洞窟には「いまの若者は嘆かわしい」と書かれていたそうで、つまりいつの時代も年長者が若者を見るのは「そんな風に見える(愚かで、奇異)だ」ということである。

実際、四十半ばの自分の目にも、十代、二十代の若者は「そんな風に」見える。


だが、さらに少し違うことに気づいた。
夢は、自分から取に行けるものだ、ということ。
これは実は決定的に重要なことである。

もう自分はダメだ。
お先は真っ暗だ。

そんな風に、ある種、客観に自分を眺めて「最悪の場合」を想定する冷静さは必要だ。
だが、同じレベルで「いつかは、あのレベルに」とか「このまま積み上げた先には、なかなかどうして」などと、この場合も割合客観的に、自分の行動の成果を把握して見る、というのも大事なことである。
そして、自分の能力に箍(たが)をはめず、「うまくすれば、どこまで"先"を想像できるか」ということも、十分自分を頑張らせる動機になりえると思う。

そんな中で、なにやら輝いていて、ピンク色になっている、ふわっとした「自分の夢」を自分で育む、というのは実は自分でできる一番シンプルな動機付けなのである。

「獏」は夢を食べてしまう動物だそうだが、その夢を作るのは、実は我われ人間なのである。


何でもいい。
どんな分野でもいい。
どんどん夢を作りませんか。
それが自分の「元気」になるようだから。