藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

身につける極意。

「どうせ力」には二面ある。
精神面と肉体(行動)面。
メンタルとフィジカルが連動しないと、中途半端な状態が続いてしまう。
これが実に多い。
逆に言えば、「そうそう日常の仕事とか、予定とかにそれほどテンションは上がらない」ということであり、一見当たり前に思えるが。
ここが肝である。

「まあ仕事だから」
「まあ受験だから」
「まあ友達だから」
「まあ付き合っているから」
「まあ後輩だから」
自分たちの日常にはそんな半惰性的な作業が渦巻いている。
というか余程のことがないと、そんなに興奮することもない。
そこを変えるから、日常が劇的に変わるのだ。
仕事も遊びも、人間関係もすべて同じく適用可能である。

二つの方法。

まず一つ、そのタスクに着手するに当たり、「もう事態は変わったのだ」と頭を意識的に切り替えること。

これがメンタル・スイッチになる。
続いて肉体面。

迅速に、「段取り」を考える。
「まあやるか」というそのタスクの最も成功した状態をイメージする。
作業に着手したら、全ての行動は素早く。
肉体(その多くはpcの操作かもしれないが)を動かす時は"必ず圧倒的なパワートスピード"で臨む。

この「意識と行動の連携」で日常は画期的に変わることに気づいた。最近。(ずん)

実際にそう意識してみると、これがなかなかに面白いのだ。
ふと「今、自分の手とか頭は全力で動いているかな?」と気にして見る。
と、「あれあれ、そうでもないな」と気づく。
どうしてか? と思うと「あぁ、メンタル面のスイッチを入れ忘れているじゃない」となる。
で、スイッチオン。
すると自動的に「フルパワーモード」になるのである。
つくづく、人は精神で生きている。


こうしたことは、もっと早くに気づきたかったなあ。
高校生時分に、「そんなこと」に気づいていたら、今の自分はなく、まったく違った道を歩んでいたろうなぁ、などと思った。(遠い目)


どうせ力。(後記)


最近クダクダと「どうせ力」と称して、つまり「どうせやる(こと)なら、惰性は排して全力で当たったら、驚くほど周囲の景色が変わるよ」ということを書いていた。
どうせデートするなら、たらたらしてないで、いい店を選び、席を確保し、体調も整え、服装も整えて「全力で」臨んだ方が、結果も良いのである。
「やらされ仕事」と「全力でフィニッシュ」では、その結果はずい分違うものだ。


ただ、そんなことを意識してここ数日。
こと「自分で完結するタスク」については、この「どうせ力」は圧倒的に効果がある。
ただ複数人でワイワイやらねばならない時には、少々パワーの消耗が激しいのだ。
相手は全力ではないことも多いし、また互いの方向が違えば、そのすり合わせにはパワーがかかるものである。

ただ、それでも"頭のスイッチを入れ"、手足は全力で"を実践していると、周囲の空気が必ず変わるようではある。

どうせ力、はチームワークの底上げにも向いているのかもしれない。
そして休憩や飲みの時にも同様。
どうせ休憩するのなら。
どうせ飲むのなら。

思いっきりくつろぐ。
思いっきりボーッとする。