たまたまその時期に京都にいたが、周囲の反応は様々だった。
「応援はしたいけど、汚染されていては」とか
「そもそも軽はずみに、東北の薪など使うと決めたのは誰か」とか、実に様々な意見があると思えた。
送り火問題はともかく。
そもそも、こうした問題には常に二面性、いや「多面性」があることを実感した。
それは"極右と極左"よろしく、「どちらにも言い分があり」、現実的には「どういう根拠でどういう態度を取るか」ということを"納得しながら"決めてゆく作業なのだと思う。
「被曝した薪は使わない」というのは一見中立的な判断のようだが、
「健康に害のない飛散を恐れて使わないのはエゴである」という意見が出てくる。
これは一見もっともである。一方、
そもそも、各種の安全性が担保もされないうちに「送り火に使う」という軽はずみな意思表示が元凶である。
という人もいるが、「東北を支援する、という気概は評価すべき」という声も根強い。
僧侶の玄侑宗久さんは「日本人が抱える心の混乱が、京都の送り火というシンボリックな場面で出たと思う」と発言されているが、自分は、
つまりは「どういう根拠で、どういう道を選択するのか」ということのプレゼンテーションの問題である、と思うのである。
(しつこいけれど)つまり、こういう問題に"絶対の正解"はないのだ。
私(リーダー)は「これこれ、こういう考え」ゆえに、「この度はこういう処置を考えている」。
それは"政治生命を賭しての、自らの表明"だから、どうぞ理解を求めたい。
そして、有権者たちはそれを受けて、自分たちなりに色々と考え、「そのリーダーに為政を委ねられるかどうか」を考えるのだ。
常に為政者の荒探しをし、その脆弱さを突いては溜飲を下げる、というのは有権者サイドとしても進歩を欠く。
リーダーも、フォロワーも「常に日和見」では、集団が進む方向を決めることができない。
リーダーに能力を求めるのなら、選出する側にも一定以上の責任と知性が必要だろうと思う。
自分たち人一人が「薪問題」について、自分なりの意見を述べられねばならない。
野次馬の風評ばかりでは日本はこの先も変わらないと思うのである。
玄侑宗久さん「日本人の心の混乱が出た」 被災薪問題
■福島県に住む芥川賞作家の僧侶、玄侑宗久さんの話
放射能とどう向き合っていくか。日本人が抱える心の混乱が、京都の送り火というシンボリックな場面で出たと思う。京都市は「被災地を支援したい」との思いから薪を使うことを決めたと思う。でも、放射性物質を帯びているとわかって燃やすことはない。わずかだとしても飛散はする。苦しい思いはわかる。福島県民のなかでも、心の分裂がある。環境中の放射性物質はできる限り取り除きたい心情と、気にしすぎていたら暮らしていけないという心情と。私は、京都を責めないでおきたい。◇
■京都大の内海博司・名誉教授(放射線生物学)の話
薪の使用中止を決めた京都市の判断を、京都人として恥ずかしく感じる。そもそも薪の表皮を処理してから持ってくる方法もあったうえ、検出された放射性物質の量なら健康には影響しない。市は、「送り火の意味を踏まえ、検出されたが実行する」と言って欲しかった。市は京都の名誉をおとしめるとともに、被災地の風評被害を助長させたと言える。