藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

いつの世代も、誰もが混迷。

混迷の時代を生きていくということは、オレもまた混迷。混乱して日々を過ごすことのなるのだと知って、また落ち込んでしまった。

浅井さんほどの人でも、「混迷の時代」と現在をいい、そして「オレもまた混迷」という。
「また落ち込んでしまった」とあれほどの人の言葉を聞くと、自分などもちょっと安堵してしまう。

「こんな混迷って、かつてあったか。貧しい戦後だって高度成長期の中にだってなかった重くて暗い世間に、オレはほとほと疲れている。この酒でさえ、オレには味が変わった。重くて、苦い」

高度成長期と違う、ちがった混迷の中にどうも自分たちはいるらしい。
けれど「高度成長期に戻って、当時の価値観で生活したいか」と問われれば、そうではなく、今の価値観からさらに煮詰めたものを探したいと思うのだ。
むしろ「ひたすら走る方向」が見えていた時代に、価値観の葛藤とか、自分の人生の本当の意味、とか考える人のほうが少なかったということではないだろうか。

「そう思いたいね。金だけのために働くと、混迷の時代につながっちゃうんだ」

結局まだポスト高度成長、の変革期の価値観の中を自分たちは泳いでいるのだろう。
それでも「金だけのために働かない人」はここ最近、ずい分と増えてきているように思う。

団塊の世代もどんどんリタイアする中で、本当の新しい価値観が輪郭を現すのではないだろうか。
そんな風に"これからに"明かりを見出したいと思うのである。

<asahi どらく>より。
今年のテーマは「さらば混迷」
混迷の時代を生きていくということは、オレもまた混迷。混乱して日々を過ごすことのなるのだと知って、また落ち込んでしまった。

友人のMが、ぼくから見ればすこし贅沢(ぜいたく)なバーボンが入ったロックグラスを口元に運び、止めて、いった。

「あのスティーブ・ジョブズはハングリーであれ、愚かであれ、といっているじゃないか、彼は哲学者でもあったわけだ。混迷はそれに近くはないか、ハングリーもフーリッシュも」

ぼくはグラスに入った燗(かん)の酒を持ち上げた。

「バカだな、それとは意味が違うだろう」

「そうか、そうかもしれないが、いやでも、今という時代はなにかに飢えて愚かに、生きることになってしまったんじゃないか」

ぼくらは場末の飲み屋のカウンターに座っていた。ジョン・レノンのイマジンが小さなスピーカーから流れて、妙な時間の中にいた。

「こんな混迷って、かつてあったか。貧しい戦後だって高度成長期の中にだってなかった重くて暗い世間に、オレはほとほと疲れている。この酒でさえ、オレには味が変わった。重くて、苦い」

「そんな気分が、わからないわけじゃない。こんなとき、オレの自我や存在はどんな具合に折り合いをつけて生きていけばいいのだろうか、と自問自答を繰り返しているよ」

「オレはジョブズがうらやましい。ハングリーも愚かも、そうであれと言葉にできることは一種の悟りに至ったということでもあるからね」

「『I never did it for the money』ともいっている」

「ということはオレから見れば、ホンマカイナということになるんだ」

「いや、それは考え方や思いようによるさ。オレたちだって、金だけのために働いてきたというわけでもないさ」

「そう思いたいね。金だけのために働くと、混迷の時代につながっちゃうんだ」

熱い酒がのどを何度も通り過ぎていった。

「いずれにしても、人間らしさとは何かを考えながら、重さから逃走したい。さらば混迷が今年のテーマだ」

「そうなって欲しいな」

ぼくたちは大勢の人でにぎわう駅で互いに手を上げ別れた。