藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

閾値を超える力。

「突破力」というような表現を聞くことがある。
一般的には、スピードと質量つまり「力積」の大きさ、というようなニュアンスで使われているようである。
(単に運動量が大きい、という感じではない)
確かに、ある困難に直面して、そこで底力を噴出させてブレイクスルーする、という頑張りは大事である。
どちらかと言うと、それとは違う話。(ヘンな前置き)

いき‐ち【閾値
1 ある反応を起こさせる、最低の刺激量。しきいち。
2 生体の感覚に興奮を生じさせるために必要な刺激の最小値。しきいち。

英語では?

threshold《心・生》
〔それ以上またはそれ以下になって初めて、心理学的・生理学的反応をもたらす刺激のレベルの分岐点。〕
by 英辞郎

むしろ「瞬間的なものではない」ことで養成される力、のこと。
その「突出したパフォーマンス」は、そんな「閾値を超える下積み」からこそ、生まれるのだということなんである。

例えば、音大に入る人は、例外なく幼少時でも一日三時間、年齢が二桁になるころからはその倍くらいは練習している人ばかりである。
これが、相当才能に恵まれていても、「ずーっと一日三時間」で通していれば、多分「閾値」を超えられない。
スポーツの世界もしかり。
研究者の世界もそう。
そうした「創作的」な業界ではそうした「下積みありき」は当たり前であり、その世界にいる誰もが「それ」を前提として各々のテーマに従事している。

アスリート以外の閾値

一方それと違うのが"ビジネス界"である。
なかなか「一つの道筋」というのはない。
武道でいえば、「一刀流」とか「無外流」とかで、その流派の師匠や免許皆伝がいて、みなある程度一律に「型にはまった努力」さえすれば「ある程度の成功が約束されている」というわけでもない。
とはいえ、例えば「ラーメン店」を成功させるには、それへ向けた「ひたすらの修行」は必須のようだが、あまり体系化はされていない。

武道などと違い「流派は様々に、何でもあり」が今の世の中なのだろうと思う。
従って、最初の一年はIT業界、次の二年は経営コンサル、それからメーカーのマーケティングで数年して、広告代理店で三年過ごし…といった風に過ごしていると、「結局自分は何者なのか」という根本的な海図を見失うことがある。

断片的にはいい腕をもっているが、その人自身が何をしたいのか、つまり「個性や志」が全く以て見えない、という人は案外多い。
自分たち(いわゆる)大人は、あまりそうした根源的な質問を、そのシリアスさ故に、互いには「あまりしないようにしている」が、日々の仕事の中で「自分の超えたいこと」とか「目指すハードル」のようなものは、実は必要だし、ならばそこへ向けた「閾値を超える修行」も必要なはずである。

日々の仕事をこなしていれば、あまり自分の歩む日々が「ただ一本の道を往く」という風には見えないものだけれど、実は武道や学問と同様、「ある方向へ向けた恒常的な下積み」というのは、後日問われてくるのだと思う。
自分は何をゴールに、そして閾値を超えるための日々はどんなものであるか? を今一度考える必要を感じている。