藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

呟きの共感。

ずい分以前に書いたエントリーに対しても、未だにコメントをもらうことがあるのだが、幸せセンサーの変化という題で書いた記事には反響が多かった。

そういえば。
今のところ、今年で一番嬉しかったことは、通販で買ったマグカップが全くのイメージ通りで超お気に入りの一品となったことである。(まだひと月だけど)
で、昨年の一番はというと、長年の懸案だった「キッチンの水切りカゴ」をついに通販でオーダーし、急ぎ組み立てたところ、ギリギリのmm単位でビッタリ収まったこと。(嬉)
あと三ミリでも計測が狂っていれば大後悔の粗大ごみを生み出すところであった。
あれは我ながら冷や汗ものだった。(おかげでそれ以降の皿洗いライフは実に快適である)
今年はさらにマキタのコードレス掃除機が対抗馬になりそうな気配。
こんなんで大丈夫か、俺。

お気に入りのカップが見つかったとか、キッチン周りがどうの、とかなり所帯じみた自分の日常のことを呟いたような力の抜けた話なのだが…
ブログとtwitterの違いとか、またこれらとSNSとの比較とかがよく話題になる。
この記事へのコメントは「私の一番のお気に入りはマルコリーニのチョコです」とか「ペダラーの靴と出会って価値観が変わりました」とか「高級ブランドのジーンズを思い切って買って、オシャレ観が変わりました」とか、実に人それぞれ独特の価値観を持ち、それにこだわっているのだと気付かされる。

真っ向から共有したくはないもの

そうした、人それぞれの好みとか、習慣のようなものの話は尽きないが、問題は"そうした話"を共有したいかどうか、である。

その人の好きなものや生活信条などを、一方的に聴かされるのはむしろ苦痛のような気がする。
かといって、どんなことにこだわっているのか、ということは聴いてみたい。

そんな心理状態がtwitterのように、短く「Zooでネイルアートなう」とか「田中家の信州そばなう」という、さりげないリード文で呟かれ、興味のあるものには一部反応してみたり、また大部分は読み流して互いに干渉しない、という「読み捨てのここちよさのようなもの」が受けているのではないだろうか。

よく自分は(特に若いころの友人から)「お前のブログは面倒くさいなぁ」と言われるのだけれど、友人たちは読んでくれているのだが、あまり「特に藤野の主張など毎度毎度聴く気もないのに」と思っているようである。
我われが日常望んでいるのは、あまり「角付き合わせる話題」での応酬ではなく、他愛のない日常会話なのかもしれない。
負担にならない呟きを互いにし合うことによって、でも「ユルいつながり」を繋いでいる、というのがネット上での一番ストレスのない関係ということだろうか。
同じ文脈の濃淡で、SNSも同様のことが見て取れる。

いずれにしても結果的には「"そこ"から深まってゆく何か」が本当は一番楽しいところだと思うのだが、どうだろうか。