藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

Retainという。

例えば自分のこと。
・自分は、まず「精神と肉体」で出来ている。
だからそれらの保持をすること。

・次に自分は一人では生きていないこと。
すると、家族、友人、仕事仲間、先輩後輩、親戚縁者、恩師、ご近所仲間、最後には道ですれ違う人とも「一定の接し方」は必要である。
そういうコミュニティに自分たちはいるのだから。

保持の意識。

そう考えると、「自と他」という区別が大きくあれど、自分たちは実に多くの集団と過ごしていることに気づく。
自分の精神面。
それは健康のこと、仕事のこと、家族や親戚のこと、友人や近隣のこと。
ついつい仕事とか家族とかについて重きを置いて考えてしまうが、関わり合う「外界」はとても多様である。

そして肉体面。
平均寿命はどんどん伸びている。
医療もどんどん高度化し、健康法もどんどん多様化している。
そして肉体は確実に老いてゆく、というエントロピー
これを、精神面とも歩調を合わせながら「保持して」行かねばならない。
肉体、健康面の意識も重要である。

さらに、精神面と同様、肉体的(物理的)にも、「外部との接触」は避けられない。
家族や親戚や・・・といった外部との関係保持にも、一定のパワーは裂かねばならないのである。

で、何が言いたいか。

今の社会で"普通に生きている"というだけで、「相当な種類の外部との関係を破たんせず維持する」ということに等しい。

「ご近所付き合い」を一つ取ってみても、そこが破たんしてしまえば、地域のコミュニティーには途端に摩擦が起きてしまうだろう。
「どの外部世界とも破たんしてはならない」という暗黙の義務が自分たちには課せられているといっていい。

そして、それだけではなく。
そうした「絶妙のケア」をしながらも、先の「老いへの対応」とか「仕事のクリエイティビティ」とか「業績向上」とか「経済力のアップ」とか、「溌溂とした人間関係の維持」といったものまでが、自分たちには求められてくる。
それが今の日本のような国で、社会に属しながら生きてゆく、ということなのである。

家族や恋人とも破たんせず、仕事も順調に、また道行く人とも摩擦を起こさず、そうした「数十以上の世界とのバランス」を取りながら、自分たちは人生を進んでいる。

何か、「体の老いにしても、仕事にしても、老後の生活設計にしても、家庭問題にしても」次々と問題が波状的に起こっている、と認識するのではなく。

今の文明国に住む、ということは少なくともそうした「数多の内部・外部世界と」"破たんせずにバランスする力を持つ"という事に相違ない。
しばしば、「天から降ってくる卵を無限にバスケットで拾いまわる」ような感覚に陥りがちだが、もともとそのくらいの「保持力」が要求されるのが今の現代社会なのである。

あえて、ここにとどまってそうした努力を続けるのか、それとも
さっさと「付き合う外部世界の数の少ない地方」へと移住して楽になるのか。
そんなことを疲弊してしまう前に、積極的に選択していかねばならないのではないだろうか。

先が見えず、次々に降ってくる問題に対処するのは精神的にとても消耗するものである。
どちらに進むにせよ、自らの意思が働いているのだということを忘れずにいたいものである。


ムリして環境に支配される必要はない。